世界最初の全身麻酔による乳癌手術に成功し,漢方から蘭医学への過渡期に新時代を開いた紀州の外科医華岡青洲.その不朽の業績の陰には,麻酔剤「通仙散」を完成させるために進んで自らを人体実験に捧げた妻と母とがあった‥‥美談の裏にくりひろげられる,青洲の愛を争う二人の女の激越な葛藤を,封建社会における「家」と女とのつながりの中で浮彫りにした女流文学賞受賞の力作――. |
華岡青洲の麻酔薬開発と,彼を支えた実母・於継と妻・加恵の物語は,医療史における革新と女性の葛藤を交差させた壮大なドラマである.青洲が1804年に成功させた全身麻酔による手術は,米国のクロフォード・ロング(Crawford Long)が1842年にエーテルを用いた麻酔手術に成功する約40年前に遡る.青洲は,曼荼羅華(チョウセンアサガオ)や鳥頭(トリカブト)といった猛毒植物を用いた麻酔薬「痛仙散」を開発し,婦人の乳がん手術に成功するが,そこに至るまでには数多くの動物実験と人体実験を経ている.
物語は,封建的な価値観が支配する紀州の国を舞台に,女性同士の対立と競争が描かれる.於継と加恵の間には,単なる義理の関係を超えた激しい感情の応酬があった.息子を愛する母と,夫を支える妻の間で,互いに優位性を争う中で生まれた感情的対立が,麻酔薬開発における協力に影響を与えている.姑から無慈悲な言葉を投げかけられた嫁は,自らの存在価値が単に跡継ぎを残すことにあるのかという苦悩に直面しながらも,自らの身体を実験台に差し出すという覚悟を決めた.
その結果,加恵は失明という深刻な副作用に見舞われたが,青洲の献身的な看護を受け,彼の心をつかむことになる.一方,母・於継は,嫁に対して最終的に敗北感を味わい,老いと共に息子の愛情が嫁に傾いていく様子を見ながら,その生涯を終える.著者がこの物語を描く際,華岡家に事前に許可を求めたが,華岡家からは,於継と加恵の間にあった壮絶な葛藤は明かされなかった.
単なる美談だけではなく,この2人の女性が感情的な葛藤や対立を乗り越えたからこそ,青洲の偉業が成し遂げられたという視点を無視することはできない.彼女たちの決断と行動は,封建社会において女性が果たす役割と,その犠牲を反映している.青洲の物語は,医療の進歩を象徴するだけでなく,冷徹なまでの合理主義とリベラリズムを女性の視点から描き出す.現代の視点で見ると,この物語は,科学の発展における女性の貢献と,彼女たちが背負った犠牲を照らし出すものであり,単なる英雄譚以上の深みを持つ.
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原題: 華岡青洲の妻
著者: 有吉佐和子
ISBN: 978-4-10-113206-8
© 1970 新潮社