▼『ベルカ、吠えないのか?』古川日出男

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫 ふ 25-2)

 キスカ島に残された四頭の軍用犬北・正勇・勝・エクスプロージョン.彼らを始祖として交配と混血を繰りかえし繁殖した無数のイヌが国境も海峡も思想も越境し,"戦争の世紀=20世紀"を駆けぬける.炸裂する言葉のスピードと熱が衝撃的な,エンタテインメントと純文学の幸福なハイブリッド.文庫版あとがきとイヌ系図を新に収録――.

 ラッドハウンドは警察犬.セント・バーナードは救助犬として訓練されるように,ジャーマンシェパードドーベルマン・ピンシェルなどは「軍用犬」として育成訓練されてきた.日露戦争第一次世界大戦でその兵器としての用途は拡大している.本書の主体は,1943年のアリューシャン列島,キスカ島(神鳴島)に日本軍が置き去りにした軍用犬4頭(北,正勇,勝,エクスプロージョン)の生命力,その系統樹

残されたのは軍用犬だ.四頭いた.出自はそれぞれ異なる.一頭は発達した筋肉と寒さに対する強い耐性を備えた北海道犬(旧称アイヌ犬)で,名前は北.これは海軍に属した.島に自生している野草の類いの毒味係を任されていた.陸軍の犬は二頭いて,どちらもイヌ種はジャーマン・シェパード,名前は正勇と勝といった.さらにもう一頭シェパードがいたが,これは本来は陸軍のイヌでも海軍のイヌでもなかった.米軍捕虜のイヌだった.名前はエクスプロージョンといった

 繁殖を続け,アメリカ,北朝鮮ベトナムアフガニスタン,シベリアに分散した子孫たちは,各地の紛争,ゲリラやマフィア抗争の犠牲となり,あるいは潜り抜ける.「イヌよ,イヌよ,お前たちはどこにいる?」――この反復が,犬たちのスプリントを追尾する.キスカ島に端を発し,彼らの体高と目線を意識して,20世紀史を遠望する意欲の強引さ.それでも,4頭とその血を引くものの生命力は荒削りの強靭さを感じさせる.

 それに引き換え,人間模様の描写の精彩のなさは,如何ともしがたい.数奇な大河ロマンを味わいたい読者の欲求に,応える力はない.「ベルカ」は,1980年8月,旧ソ連人工衛星スプートニク5号に搭乗し生還を果たした宇宙犬ロシアン・ライカ種の名.警備犬飼育購入委員会により,KGB国境警備軍特殊部隊“S局”軍用犬チームでリーダーに任命される犬に冠せられる称号でもある.タイトルだけはセンスがいい.

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原題: ベルカ、吠えないのか?

著者: 古川日出男

ISBN: 9784167717728

© 2008 文藝春秋