▼『全証言 東芝クレーマー事件』前屋毅

全証言東芝クレーマー事件: 謝罪させた男企業側 (小学館文庫 Y ま- 2-3)

 「怖かった……」大企業・東芝に対して,抗議のホームページを開設.ついには副社長に謝罪させた男は,その後,悪質な「クレーマー」だと逆に攻撃されることとなった.彼のホームページのアクセス数は1000万件を超える.まさに渦中の人となった彼だが,そのときの気持ちを冒頭のように表現する.個人vs企業の間にいったい何があったのか?その証言にはいまだに食い違う部分が多い.インターネットという新しい情報手段が生んだ事件の真相を,双方の言い分から探っていく――.

 999年に発生した「東芝クレーマー事件」は,消費者と企業の関係,クレーム対応,そしてインターネット社会のあり方に深い影響を与えた象徴的な出来事である.この事件を機に,企業はクレーム対応を再定義し,消費者はインターネットを通じてその声を広く発信する手段を得た.しかし,それと同時に「モンスタークレーマー」という新たな社会問題も浮上した.事件は,消費者「Akky」が東芝製のS-VHSビデオテープ再生時に発生したノイズについて不満を抱き,東芝にクレームを申し入れたことから始まった.当時のクレーム対応の一般的な流れでは,企業と消費者のやり取りは閉鎖的であったが,Akkyはインターネットという新たなツールを使い,自らの不満を広く公開した.この行動は,当時としては画期的であり,クレーム対応が一消費者と企業間の問題から,広く社会的な論点へと拡大する契機となった.インターネットが普及する以前,消費者が企業にクレームを申し立てる場合,電話や手紙が主な手段であった.そのため,クレームは通常,企業の内部で処理され,大規模な消費者運動が起きることもあったが,情報の拡散速度が遅く,消費者の力は限定的であった.

 これに対し,インターネットの登場は消費者の声が即座に広範囲に届く新時代の幕開けを告げた.Akkyは,自らのホームページを通じて東芝の対応を公に批判した.この行動はインターネットの力を象徴しており,消費者が企業に対して大きな影響力を持つ時代が到来したことを示唆している.しかし,その情報にはAkkyの視点が強調され,企業側の事情や背景はほとんど伝えられていなかった.この点にこそ,インターネットの危険性が潜んでいた.一方的な主張が急速に拡散し,企業イメージにダメージを与えるリスクが生まれたのである.インターネットの普及により,口コミの影響力は飛躍的に強まり,瞬時に広範囲に拡散されるようになった.しかし,オンラインでの口コミの信頼性は,しばしばその出所の透明性や情報の正確さが問題視されるようになった.事件が示したのは,企業がクレーム対応において従来の戦略では対応しきれない新たな時代に突入したことである.Akkyがインターネットを通じて発信した批判は,従来のクレーム対応では予想し得なかった規模で広がった.

 東芝はこの情報の拡散に対し,迅速かつ効果的な対応ができなかったため,企業イメージが悪化した.この事件は,クレーム対応がもはや一部門の業務ではなく,企業全体の危機管理として再定義されるべきであることを示している.「危機管理(クライシスマネジメント)」概念は,20世紀後半に企業戦略として確立されたが,特に注目されたのは1982年に発生した「タイレノール事件」である.この事件では,米国ジョンソン・エンド・ジョンソンの製品に毒物が混入され,複数の死者が発生した.同社は迅速に全製品を回収し,記者会見での透明性のある対応が評価された.この事件以降,危機管理は「いかに迅速かつ誠実に対応するか」が重要視されるようになり,企業のブランドイメージに大きく関わることが認識されるようになった.この事件を通じて浮かび上がったもう一つの重要な側面は,「モンスタークレーマー」の出現である.Akkyは当初,正当な消費者の権利を主張していたが,クレームが過激化し,企業に過剰な負担を強いるような行動が問題視されるようになった.このような消費者は,企業に対して不合理な要求を繰り返し,結果的に他の消費者や企業自体に悪影響を及ぼす.消費者が企業に声を上げることは正当な権利であるが,その行動には倫理的なバランスが求められる.

 モンスタークレーマーは日本独自の現象ではなく,世界各国で見られる.例えば,アメリカでは過剰なクレームを行う消費者を揶揄する"Karen"という言葉が生まれ,イギリスでは"Jobsworth"として,規則に固執しすぎる顧客が揶揄される.日本は他国と比較してもクレーマーに対する耐性が低く,企業が過剰に対応しがちであると指摘される.この点は,日本社会における「お客様は神様」という文化が影響しているとも考えられる.「東芝クレーマー事件」は,インターネットが消費者と企業の関係にどれほど劇的な変化をもたらしたかを示している.消費者の声が瞬時に広範囲に届くようになり,企業はこれに迅速に対応しなければならなくなった.しかし,その一方で,消費者の声もバランスと倫理を欠けば,過剰な要求や企業への不当な攻撃に転じる可能性がある.デジタル時代において,企業はただ対応するだけでなく,より透明性のある危機管理と,消費者との誠実なコミュニケーションが求められる.最終的には,消費者と企業の間に健全なバランスが保たれることで,双方が持続的に共存できる社会が実現する.この事件は,そのための重要な教訓を残したのである.

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原題:全証言東芝クレーマー事件―「謝罪させた男」「企業側」

著者:前屋毅

ISBN: 4094161937

© 1999 小学館