サブリミナル効果などというものは存在しない.いくらモーツァルトを聴いても,あなたの頭は良くならない.レイプ被害者は,なぜ別人を監獄送りにしたのか?脳トレを続けても,ボケは防止できない.「えひめ丸」を沈没させた潜水艦の艦長は,目では船が見えていたのに,脳が船を見ていなかった.徹底的な追試実験が,脳科学の通説を覆す――. |
本書を執筆中,クリストファー・チャブリス(Christopher F. Chabris)とダニエル・シモンズ(Daniel J. Simons)は,調査会社サーヴェイUSAに依頼して「注意力の自信」のほどを,アメリカの成人たちに調査した.ここでは75%の回答者が,「別のことを行っていても予期せぬ出来事に勘付く」と答えた.この結果自体,いかに無意識的な欺瞞に侵されているかを,「注意力の錯覚」「記憶の錯覚」「理解の錯覚」「自信の錯覚」「理由の錯覚」「隠れた才能の錯覚」という6つの心理的錯覚の<最先端科学実験>が,明らかにする.
認知科学の学術専門誌"Perception"に掲載された有名な実験「不可視のゴリラ」.チャブリスとシモンズは,ハーバード大学の学生を集め,バスケットボールの試合の模様を被験者に見せ,片方のチームがパスを通した回数を数えさせた.試合中,長身のゴリラ(着ぐるみ)がゆっくりコート内に入り,9秒ほど画面に留まり,ポーズまで取っていたが,被験者の半数はその存在を「視認」していなかった――注視しているもの以外は,視野に入っていても脳が認識していない.そのことにさえ,人は自覚することはない.
私たちは周囲の世界の,ある部分は生き生きと体験する.そして自分が注意を集中させているものは,とりわけ鮮明に見える.だが,その鮮明な体験が,自分には身の回りのあらゆる情報を細部にいたるまで見逃さないという,誤った自信を生んでしまう.実際には,まわりの世界の一部は鮮明に見えていても,現在熱中していることから外れた部分は,まったく見えていないのだ.実験の鮮明さが精神的な盲目状態を生み出し,私たちは視覚的に目立つものや異常なものがあれば,絶対に自分の注意を引くはずだと思い込む.だが,実際にまったく気づかないことが多い
注意,記憶,自信,知識,経験,原因,可能性といった分類で,溢れるほどの錯覚事例が本書では紹介される.認知のメカニズムの陥穽というものが,どれほど身近で危険なものかを示すインパクトが大きい.NPO団体イノセンス・プロジェクトの2009年の発表によれば,裁判で陪審員の誤審の原因の75%以上は,証人の「自信をもった発言」によるものであるという.多少飽きるが,実験例を多く知るには格好の書である.
どの錯覚も,私たちに自分の能力や可能性を過大評価させる.そしてもう一つ,すべての錯覚に共通して言えることがある.いずれの錯覚でも,私たちは自分が簡単にできることを,うまくできることと混同しやすい.心理学用語で言うと,私たちは情報を処理するときの"容易性"を,自分が沢山の情報を深く,正確に,巧みに処理できるあかしと受け取る.だが処理の容易さには,錯覚がひそんでいる.たとえば私たちは,記憶を呼び戻すときに苦労を感じない.そして記憶が簡単に甦ることは実感するが,蓄えられたあとの記憶の変形は実感しない.記憶の変形は,私たちの意識下で起きるのだ.そこで難なく呼び戻せる記憶の容易性を,自分の記憶の正確さ,完全さ,永続性と誤解する.知覚,注意力,自信,知識などの知的作業でも,容易性が同じような誤解を招く.そしていずれの場合も,錯覚が深刻な結果をもたらす
ところで,本書に出てくる「記憶の錯覚」の例として,ヒラリー・クリントン(Hillary Rodham Clinton)が2008年の米国大統領選で失言したケース.「ボスニア紛争の際,ヘリで着陸した途端,狙撃兵の銃火を浴びた」というヒラリーの体験談を,ワシントンポスト記者が実際の映像で検証したところ,彼女は護衛付きで悠々とホテルまで移動していた.これは,記憶の錯覚あるいはエラーのエピソードではなく,詐話師としての披歴である.
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Title: THE INVISIBLE GORILLA
Author: Christopher F. Chabris, Daniel J. Simons
ISBN: 9784163736709
© 2011 文藝春秋