イスラム圏についての西欧文化圏における報道は,政府や,利害のからむ企業の思惑と学者や専門家の知が結びついて様々なゆがみを生み続けている.現代アメリカ最高の批評家がその構造を鋭く撃つ――. |
市民が批判力を失えば,旧い世界の旧弊を糺すことなく,公共の在り様も衰退していくほかはない.英委任統治下のエルサレム生まれのキリスト教徒で米国籍を取得,パレスチナ民族評議会(PNC)の議員を14年間務めたエドワード・W.サイード(Edward W. Said)は,米国内でパレスチナ側の立場を尊重する発言を続けた識者だった.本書は,「西洋(≒アメリカ)」が「イスラム」を,いかに偏向性をもった報道姿勢を続けたかを告発する.いわば知識が主観に毒される格好の題材が“イスラム”.その精製は,不明瞭で不均衡,野放図に為される報道そのものが事例史となっている,とサイードはみなす.
私が本当に信ずるのは,批判精神の存在,および専門家の特殊利害や常識的見解を超越してその批判的精神を発揮する能力と意志を持つ市民の存在である…中略…人間的な知識が始まり,その知識を求める公共の責任が担われ始める.その目標を前進させるために,私はこの本を著した
とりわけ9.11以降のCNN発信映像が強力に世論に与えたのは,シーア派の殉教,豊かな顎鬚のムスリム=狂信的テロリスト,というイメージ.洞察よりも煽動を投げかけ,イスラム報道がアメリカの単独行動主義の正当化に重要な役割を負った.19世紀に大国を自称するアメリカは,国土を本格的に侵された経験のないことを誇りに考えていた.9.11は,その油断を衝く大事件であった.しかし本書でサイードは,1979年11月4日のイラン人学生によるアメリカ大使館占拠事件などでも,「殉教のイデオロギー」がアメリカ市民に衝撃と憎悪を喚起させるものであったことを鋭く指摘する.現実に存在している人間社会は,批判や倫理を内向することで「知性」「権力」の解釈の方向性を定めるものだろう.文化装置としてのメディアの役割と主体性を考えるなら,報道による「解釈」が人々に与える印象は,世界の秩序に対する観念――脅威の世界観――を相当程度に固定化する懸念がある.
私が語っているのは,人がイスラームについてメディアを通して読んだり見たりすることのほとんどが,侵略行為はイスラームに由来するものであり,なぜなら〈イスラーム〉とはそういうものだからだと表象されている,ということである.その結果,現地の具体的なさまざまな状況は忘却される.言い換えれば,イスラームについて報道するということは,〈我々〉が何をしているかを曖昧にする一方で,このように欠陥だらけのムスリムやアラブ人とは何者であるかに脚光を当てる一面的な活動なのである
米国とアラブのどちらかに不当に加担することなく,双方への批判を展開したサイードは2003年に死去した.その意思は,本書が出された1981年に明確にされていたことは注目される.ジャーナリズムとアカデミズムの政治的協調は,植民地主義時代からの遺物となって相互批判を困難にし,アンチテーゼを阻むという論は今日的にみても慧眼.アメリカの単純極まりない二分法が,外交戦略の手綱を締める事態を抑制するため,サイードは安保理あるいは国連総会の決議での対米制裁すら言明していた.その実現の可能性ではなく,視点をもった批判の在りかたを考える上では有益な意見だった.本書の原題"COVERING"には,「報道」「隠蔽」の2つの意味がある.
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Title: COVERING ISLAM - HOW THE MEDIA AND EXPERTS DETERMINE HOW WE SEE THE REST OF THE WORLD
Author: Edward W. Said
ISBN: 4622050099
© 1996 みすず書房