少なく見積もっても2,500万人以上の死者を出したといわれる,1918-1919年のインフルエンザ(通称「スペインかぜ」).本書は社会・政治・医学史にまたがるこの史上最大規模の疫禍の全貌を明らかにした感染症学・疫病史研究の必読書.この新装版には訳者による最新の解説「パンデミック・インフルエンザ研究の進歩と新たな憂い」が付され,発生が近いといわれる新型インフルエンザ,およびそのパンデミック(汎世界的流行)対策の現状に引きつけた史実の読解が促されている――. |
世界を揺るがせたスペイン風邪のパンデミック(1918-1919)では,全世界で2,500万人以上が死亡,アメリカ国内だけでも50万人以上が命を落とした.この数字は第一次世界大戦での戦死者数を上回り,スペイン風邪が社会に与えた衝撃は計り知れないものであった.だが奇妙なことに,このパンデミックは現代においてほとんど忘れ去られている.著者はこの事実に疑問を抱き,パンデミックの過程とその後の忘却の原因を探るために本書を執筆した.フィラデルフィアやサンフランシスコといった都市でのエピソードを通じて,アメリカ市民の反応や社会の混乱が描写されている.このパンデミックが「スペイン風邪」と呼ばれる由来にも,興味深い歴史がある.実際,インフルエンザはスペインから発生したわけではなく,第一次世界大戦中の報道規制の影響で中立国であったスペインが初めて感染拡大を報じたため,この名称が定着した.戦時中のアメリカ政府は士気の低下を避けるために感染状況を隠蔽しようとしたが,結果的に情報が不足し,感染拡大を招いた.
スペイン風邪と2020年のCOVID-19パンデミックには驚くほど多くの共通点がある.両者は呼吸器感染症であり,空気中の飛沫を通じて感染が拡大する.また,主な死因はウイルスそのものではなく,免疫系の過剰反応である「サイトカインストーム」と考えられている.しかし1918年当時,ウイルスの存在は科学的にはほとんど理解されておらず,インフルエンザの原因が細菌と考えられていた.そのため,感染対策としてはマスクの着用や集会の禁止などの予防策に頼るほかなく,治療法もワクチンも存在しなかった.このような状況で人々はパニックに陥り,科学的根拠に基づかない迷信的な治療法が広まった.当時のアメリカでは,「コロイド銀」「ヴァインガー」などの民間療法が流行したことが挙げられる.香りの強い植物の粉を吸入することでインフルエンザを防げるという迷信が広まり,これが信じられていた.また,「ラッキーストライク」など特定の銘柄の煙草がインフルエンザ予防に効果があるとされ,広告においても謳われた.しかし,こうした治療法には科学的根拠がなく,多くの人が無駄な手段に頼ることとなった.
さらに,アスピリンの過剰投与が推奨されるなど,医療現場でも誤った情報が氾濫し,結果的に肺水腫を引き起こし,患者の命を縮める一因になった可能性がある.著者は,アメリカ国内でも都市ごとに異なる感染対応や市民の反応を描写している.フィラデルフィアでは,感染が拡大する中でも10月に大規模なパレードが実施され,これが一気に感染爆発を引き起こした.死者が急増し,街の葬儀屋が対応しきれなくなり,死体が通りにあふれたという記録も残っている.パレードは感染爆発の象徴として語り継がれており,感染症対策の失敗の典型例とされている.一方,サンフランシスコでは最初のマスク着用命令が発令されたが,多くの市民がその効果に疑念を抱き,反マスク運動が起こった.当時の新聞には「マスク反対同盟」まで結成されたと報じられ,市議会はマスク義務化を拒否するなど,現代のパンデミックにも通じる市民の分裂が生じていた.当時の医療従事者は現在のような「個人防護具(PPE)」を持たず,フェイスマスクや簡易な手袋で感染リスクに立ち向かわなければならなかった.
特定の病院に患者が押し寄せるのを防ぐ試みとして,市は7つの地区に分けられ,医師がその住所ごとにそれぞれの地区に振り分けられた.それぞれの地区は,できるだけ自前で問題解決を求められ,最も急を要する地区には緊急対応のための医師団が派遣された.…中略…移送するたびに空きベッド情報がその地区の警察本部にもたらされ,あらかじめそこにリストアップされている入院中の人々の中から症状が重い順にその空きベッドが埋められていった
その結果,医師や看護師の多くが犠牲となり,感染の波が来るたびに医療現場は崩壊寸前に追い込まれた.それでも医療従事者たちは使命感を持って治療に当たり,彼らの献身的な努力が多くの命を救ったという事実が記録に残されている.このような背景から,パンデミック後には医療従事者への感謝の声が高まり,アメリカ社会における医療制度の改革にもつながっていった.なぜこれほど大規模なパンデミックが現代において忘却されたのかについて,著者は戦時下の特殊な状況と人々の心理に原因があると分析している.すなわち,第一次世界大戦が終結を迎えたタイミングで発生したため,国民の意識は戦後の復興に向けられ,インフルエンザの恐怖はあまり記憶に残らなかった.また,感染の拡大が短期間で収束し,社会全体が復興に向かって進む中で,インフルエンザは日常の出来事として消化されていった.この忘却現象は,COVID-19パンデミックが長期間にわたり社会全体に多大な影響を与え続けたことと対照的といえるだろう.
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Title: AMERICA'S FORGOTTEN PANDEMIC
Author: Alfred W. Crosby
ISBN: 9784622074526
© 2009 みすず書房