▼『病魔という悪の物語』金森修

病魔という悪の物語 ―チフスのメアリー (ちくまプリマー新書)

 料理人として働いていた彼女は,腸チフスの無症候性キャリアとして,本人に自覚のないまま雇い主の家族ら50人近くに病を伝染させた‥‥20世紀初め,毒を撤き散らす悪女として「毒婦」「無垢の殺人者」として恐れられた一人の女性の数奇な生涯に迫る.エイズ鳥インフルエンザ新型コロナウイルスなど,伝染病の恐怖におびえる現代人にも,多くの問いを投げかけている――.

 理人メアリー・マローン(Mary Mallon)の生涯そのものが多くの謎や矛盾に満ちている.彼女が"腸チフスのメアリー"として象徴されるようになった背景には,単なる感染症の話にとどまらない,多層的な意味が見出される.メアリーが働いていた20世紀初頭,ニューヨークは急激な都市化と移民の流入により衛生状態が悪化していた.上下水道の未整備やゴミの放置が当たり前であり,腸チフスのような感染症が流行する環境が整っていた.メアリーが最初に疑われた富豪宅では,彼女が調理した桃のアイスクリームが感染源とされたが,興味深いことに,メアリー自身がそのアイスクリームを口にしても症状が出ることはなかった.腸チフス菌が彼女の体内で完全に「共存」していたことを示している.衛生工学者ジョージ・ソーパー(George Soper)がメアリーに接触を試みた際の反応は,メアリーの人物像を浮かび上がらせる.

その女性は,料理がとてもうまい人だった.子どもの面倒見もよく,雇い主からは信頼されていた.だから,料理に存分に腕をふるい,雇い主にも信頼されてそのまま生活していけたとすれば,貧しいながらも,それなりに幸せな人生だったろう.だが,その女性には過酷な運命が待っていた.三七歳になったあるとき,突然,自分自身には身に覚えもないことで,公衆衛生学にとっての注目の的になり,その後の人生が大きく変わっていく.突然,自由を奪われ,病院に収容されるのだ

 ソーパーはメアリーを問い詰めたが,フォークを手にして彼を追い払った場面は一種の喜劇的要素すら感じさせる.のちにソーパーは「彼女の怒りと決意には恐怖を感じた」と振り返っている.また,便の検体を要求した際,メアリーは「そんな屈辱的なことはありえない」と拒否した.気性の激しさだけでなく,プライバシーや尊厳を侵害されたという感覚をもつことは当然だっただろう.その後,メアリーが隔離されたノース・ブラザー島は,他にもさまざまな理由で隔離された人々が集められた場所だった.ハンセン病患者や結核患者がこの島で治療を受け,一生をそこで過ごした.メアリーの隔離生活は厳しいものであったが,この間にパンやジャム作りを習得し,自らの生活を充実させようとしていたとも伝えられている.一方で,メアリーは時折記者たちに取り上げられ,「危険な料理人」としてスキャンダラスに描かれることも多かった.

 この報道がメアリーの名をさらに有名にした一方,社会的孤立を深める要因にもなった.再び料理人として働いた時期には,病原体キャリアとしての警戒心よりも,仕事を続けなければならない生活の厳しさが勝っていたと考えられる.当時,労働者階級の女性にとって,家事や料理以外の職業選択肢は極めて限られていた.偽名を使ってまで働いたことは,生きるための必死さと,保菌者というアイデンティティへの無理解が交錯した結果であろう.また,裁判で解放された後,メアリーが提出した料理以外の仕事に関する履歴書は,ほぼ白紙だったという.教育を受ける機会がなかった移民女性にとって,料理は貴重なスキルであり誇りでもあったため,それを奪われた苦悩は計り知れない.メアリーの隔離期間中,病院の医師や看護師は彼女が保菌者であり続ける理由を解明しようとしたが,当時の医学の限界もあり,その原因を特定することはできなかった.一部の研究者は,胆嚢が菌の温床であった可能性を指摘している.

 胆嚢摘出を提案する医師もいたが,メアリーはこれを断固として拒否した.手術の提案は,身体への侵襲と,当時の医療技術への不信感が重なった結果であり,現代の視点から見ても一種の医療倫理問題を孕んでいると言わざるを得ない.メアリーがノース・ブラザー島で亡くなったのは1938年のことである.解剖の結果,胆嚢から腸チフス菌が大量に検出されたが,これは彼女が亡くなるまで一度も治療されなかったことを明らかにした.メアリーの死は,医学と社会が抱える「見えない脅威」に対する無理解の象徴ともいえる."腸チフスのメアリー"の物語は,感染症の記録以上の教訓を語っている.特異な体質をもっていたゆえに,彼女が直面した隔離や偏見,そして社会的孤立は,現代にも通じる普遍的テーマである.COVID-19や感染症パンデミックを通じて,公衆衛生政策が個人の尊厳や自由とどう向き合うべきかが再び問われた.メアリーの名が現代にまで語り継がれるのは,「見えない脅威」の象徴であると同時に,その脅威に翻弄された一個人の物語でもあるからである.

もし,あるとき,どこかで未来のメアリーが出現するようなことがあったとしても,その人も,必ず,私たちと同じ夢や感情をかかえた普通の人間なのだということを,心の片隅で忘れないでいてほしい

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原題: 病魔という悪の物語―チフスのメアリー

著者: 金森修

ISBN: 4480687297

© 2006 筑摩書房