翻訳家は余計なこと(?)をする!名訳者による熱意のこもった「訳者あとがき」大全.翻訳生活40年にわたる訳業のなかから62編の「あとがき」を選んだユニークなエッセイ集――. |
アメリカ文学を日本に紹介する翻訳家と同時に,ジャーナリスト,編集者,大学教授としても幅広く活躍した著者はサンフランシスコ生まれ.本籍地は山口県であり,日米の2つの文化の狭間で育った.幼少期は,サンフランシスコの日本人移民コミュニティの中で育まれた.日本語学校とアメリカの公立学校の両方に通い,それぞれの言語と文化に触れながら成長したという.二重の教育は,バイリンガル能力を高める一方で,どちらの文化にも完全に属さないという疎外感を抱かせるものでもあった.後年,この感覚が翻訳家としてのキャリアにおいて,異なる文化をつなぐ役割を果たす動機になったと述べている.1943年,学徒動員による繰り上げ卒業後,東京新聞外報部で働き,戦時中の日本外交やプロパガンダの最前線を目撃する.戦後GHQを担当する記者となり,占領下の日本でアメリカ人職員と直接やり取りをする中で,英語力を実践的に磨いた.
GHQの担当時には,日米間の微妙な文化的誤解を仲介する役割を果たし「英語だけでなく,アメリカ人の思考や価値観を理解することが重要だと悟った」と語っている.この経験は後の翻訳作品における文化的な洞察力に直結している.1953年に翻訳したハーマン・ウォーク(Herman Wouk)『ケイン号の叛乱』は,著者にとって初のベストセラーとなり,一躍名を広めた.この作品の翻訳を進める際,日本海軍出身の知人に相談し,軍事用語や背景の理解を深めた.当時,日本で軍事に詳しい読者は多くなかったため,作品をより身近に感じられるようにとの配慮があったという.著者の翻訳はいわゆる直訳ではなく,読者の背景に配慮した「文脈翻訳」であり,その姿勢は後のキャリアでも一貫していた.ジョージ・オーウェル(George Orwell)『一九八四年』の翻訳も,代表作の一つである.
同書が1984年に再評価された際,訳書が多くの読者に読まれた背景には,冷戦時代の監視社会への懸念があった.著者は「未来小説ではなく,権力と個人の関係を普遍的に描いた社会批評である」と捉えており,翻訳にあたってもその視点を重視した.「ニュースピーク(新語法)」の概念を日本語でどう表現するかに苦心し,結果として,読者に強い印象を与える訳文を作り上げた.著者は原文のユーモアが日本語では伝わりにくいと悩むことが多かったという.ブライアン・フリーマントル(Brian Freemantle)のスパイ小説では,登場人物の軽妙な会話を再現するために,何度も訳文を推敲した.その際,「読者が笑えるかどうか」を妻に試読してもらい,反応を参考にしたと語っている.このような細部へのこだわりが,訳書を他の翻訳家とは一線を画すものにした.1992年に刊行された本書は,翻訳家としての哲学と情熱を凝縮したエッセイ集である.
手掛けた作品の「訳者あとがき」が62編収録されており,それぞれが翻訳作業の苦労や喜びを語る生きた証言である.出版後,「あとがきだけでなく,未発表の失敗談も入れたかった」と語ったことがあり,それだけ翻訳という行為に自分の全てを注ぎ込んでいたことがわかる.「翻訳家は余計なことをする!」というユーモラスな一文は,翻訳家という職業を再認識させると評された.晩年,著者は翻訳活動だけでなく,翻訳教育にも力を注いだ.大妻女子大学短期大学部の教授として「翻訳は原文と読者の間に立つ橋であり,その橋が揺れないように工夫しなければならない」と説き,学生に実務的なアドバイスを惜しまなかった.新庄哲夫の翻訳活動は,単なる言語の置き換えを超え,文化の交流と融合を追求するものであった.遺した膨大な訳業は,格調高い文体で洗練されている.日本と英語圏の文化的対話を深める「生きた遺産」として,必ず読み継がれていくだろう.
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原題: ある翻訳家の雑記帖
著者: 新庄哲夫
ISBN: 4309007856
© 1992 河出書房新社