■「戦場のピアニスト」ロマン・ポランスキー

戦場のピアニスト 4Kレストア版 [Blu-ray]

 1940年,ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻した翌年,ユダヤ系ポーランド人で,ピアニストとして活躍していたウワディク・シュピルマンは家族と共にゲットーへ移住する.ゲットー内のカフェでピアニストそしてわずかな生活費を稼ぐも42年にはシュピルマン一家を含む大勢のユダヤ人が収容所へ送られた.だが運命の悪戯か,ウワディク一人が収容所へ連れられる人々の列から外れ,収容所送りを逃れることができた.しかし彼にも,生きるも地獄捕まるも地獄の日々が始まる….

 作の完成披露を見ずして,ウワディスワフ・シュピルマン(Władysław Szpilman)は世を去っている.享年88.夫人のコメント「彼がそれを見たかったどうかは分からない.彼にとってはあの悪夢を二度経験することになるから」は,取りも直さずロマン・ポランスキー(Roman Polanski)に対する批評にして賛辞となった.1946年にシュピルマンはワルシャワ蜂起前後の隠遁生活を回顧録にまとめた.これを映画化した「ワルシャワのロビンソン」(1949)は,主人公がユダヤ人であることを伏せ,社会主義のプロパガンダに即した「別物」として公開された.目にしたシュピルマンは愕然としたという.本作のシュピルマンの逃亡と放浪は,回顧録をほぼ忠実に再現したものとなっている.ポランスキーはクラクフに作られたユダヤ人ゲットーに収容され,母を虐殺された.

 フランスのヴィシー政権下におけるコラボラシオン(対独協力) の「ユダヤ人狩り」から逃れるため,ポランスキーも長らく逃亡生活を経験した.ポランスキーにしか扱えない主題の苦悩というものがあるにせよ,彼は1984年に自伝で語るまで,ホロコーストに対する言及を避けてきた.「シンドラーのリスト」(1993)の脚本を提示されながら,映画製作の打診を辞したポランスキーは,シュピルマンとは対照的に実体験を語る時期が熟するのを待っていた.生前に記憶しているだけで,シュピルマンは生存のため25回の転居を繰り返した.彼を匿ってくれた家族のほとんどはゲットーに送られた.ワルシャワ・ゲットーに移送されたユダヤ人は約36万人.その中でドイツ軍撤退後に生き残ったのは,シュピルマンを含め僅か20人だったという.

 ピアニストで生活の糧を得ること以外には関心が薄く,新聞を読まず政情にも疎い.二度にわたるワルシャワ蜂起にも関与することはなく,窓の外の模様を無為に眺め,ただ亡霊のように廃墟をさまよい食糧を探し求める――それでも生き残ることを余儀なくも許されたシュピルマンは,常に不条理に対する恐怖に追い立てられている.彼が現実から逃避できるのは,ピアノ演奏のイマジネーションによってであった.しかし,本作で彼が披露する曲は多くはない.フレデリック・ショパン(Frédéric François Chopin)《ノクターン第20番嬰ハ短調「遺作」》は,シュピルマンの回顧録――つまり事実として――ではドイツ将校ヴィルム・ホーゼンフェルト(Wilm Hosenfeld)に聴かせた曲だが,映画では《バラード第1番GM-23》に変更された.戦後ワルシャワのホールでオーケストラをバックに演奏するのは《アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ》.

 ノクターン第20番嬰ハ短調は,本作のテーマ曲として機能する.映画のリアリズムには,シュピルマンとポランスキーが共有する悲嘆がある.まさに想像を絶するものといえるが,シュピルマンは音楽を経て体験を手記にまとめ,ポランスキーはそこから半世紀の時間を費やして,シュピルマンの音楽を濾過し映画化を可能にした.彼らの遍歴こそ,政治的イデオロギーを超越した次元で描くことを許された「ホロコースト」の情景となった.シュピルマンは大人向け500曲,子ども向けには100曲を作曲し,国民的音楽家と認知され,死後はワルシャワの地に葬られた.そこは,ワルシャワ蜂起が鎮圧された後にも赤軍が入るまで彼が身を隠し続けた首府であり,10代の頃に学んだショパン音楽院がある場所であり,ポーランド国営ラジオ局でピアニストの職を得た場所である.この物語は1939年9月,ワルシャワ陥落から始まる.

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原題: THE PIANIST

監督: ロマン・ポランスキー

148分/フランス=ドイツ=ポーランド=イギリス/2002年

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