▼『クリオの顔』E・H・ノーマン

クリオの顔: 歴史随想集 (岩波文庫 青 437-1)

 もっとも内気といわれる歴史の女神クリオにささげた随想集.現代における自由な言論の問題を論じた「説得か暴力か」など七編を含む本書から世界史研究家にして日本研究者ノーマン(一九〇九―五七)のすぐれた教養人像が浮びあがってくる.巻末に,マッカーシズムの犠牲となった著者への追悼文「ノーマンを悼む」(丸山真男)を付載――.

 史の女神クリオへの献辞として編まれた一冊であり,ハーバート・ノーマン(E. Herbert Norman)の知性,誠実さ,そして人間性を窺い知れる.本書には「説得か暴力か」「歴史の効用と楽しみ」などの論考が収められ,さらに丸山真男による追悼文が巻末に添えられている.ノーマンの人生と業績に触れることで,本書の持つ学術的価値がより深く理解できる.ノーマンの思想は,ケンブリッジ大学とハーバード大学での学びに端を発している.西洋史と東洋史の両面に精通し,日本史において独自の視点を築いた.歴史に対するノーマンのアプローチの象徴は「ゴルディアスの結び目」の話である.アレクサンドロス大王(Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)が剣でその結び目を断ち切ったという伝説に対し,問題を解く努力をせず,安易に答えを求める行為として批判した.これは,歴史を独断的に解釈し,結果のみを評価することへの警戒心の現れである.ノーマンにとって歴史学は,結果だけでなく,過程に宿る複雑性と人間性を探る学問であった.

 本書には,日本の「ええじゃないか運動」に関する考察も収録されている.幕末期に庶民が踊り狂いながら町を練り歩く奇妙な現象であったが,ノーマンはこれを社会の混乱と捉えず,時代の変化を象徴する民衆のエネルギーとして評価した.分析は,底辺からの歴史を掘り下げる視点を強調しており,歴史学の視座を広げるものだった.加えて,このような現象を社会的・文化的な文脈の中で捉える姿勢は,今日の歴史学にも通じるものである.ノーマンは,歴史の女神クリオを東洋的な視点で捉えることを好んだ.奈良の中宮寺で観音菩薩像を目にした際,その穏やかな微笑みと物思いにふける表情に,歴史家としての理想を見出したという.菩薩像は,愚かさも偉大さも含めた人間の努力を慈悲深く見つめる姿であり,ノーマン自身が目指した「寛容な歴史家像」の象徴であった.歴史を裁くのではなく,むしろ理解しようとする態度を貫いたノーマンは,GHQの一員として占領下の日本に関与し,戦後憲法の成立にも携わった.この経歴は,「説得か暴力か」という講演の内容を複雑にする.

 自由と民主主義を説いた一方で,実際にはGHQという支配的な立場にいたことは,思想と行動の間に矛盾を感じさせる.しかし,この矛盾こそが,彼が直面した歴史家としての葛藤と,時代の困難を浮き彫りにしている.講演で彼が挙げた「自由な言論」の理想は,日本の一部知識人に強い印象を与えたものの,占領政策の裏で展開される検閲の現実との対比が当時の知識人の間で論争を巻き起こした.ノーマンの著作は,日本の歴史学にも大きな影響を与えた.『近代国家としての日本の出現』は,戦後日本史研究における重要な出発点とされる.この書で,日本の近代化を西洋化としてではなく,独自の文化的要素との融合として描いている.この視点は,当時の日本史学界で斬新なものであり,その後の研究に多大な影響を与えた.日本の封建制を分析する際,当時のヨーロッパの封建制との比較を取り入れた点も特筆に値する.異なる文化圏における制度の類似性や独自性を捉える視点を持ち,これがその後の比較歴史学の発展に寄与した.巻末に収録された丸山真男の追悼文は,ノーマンの人物像を深く掘り下げたものである.

 丸山は,ノーマンを「エピキュリアン」と評し,困難な時代にもなお人間性と学問的誠実さを保ち続けたことを讃えている.この追悼文は,ノーマンの死を悲しむだけでなく,遺した思想や業績を未来に引き継ぐ重要性を訴えている.同時に,ノーマンの死がマッカーシズムの嵐の中で引き起こされた悲劇であることを指摘し,政治的圧力が個人の尊厳と学問をどれほど脅かし得るかを痛感させられると述べている.本書は,歴史学とは何か,歴史家の使命とは何かを問いかける書である.現代日本では,歴史や伝統が政治的目的に利用されることが少なくないが,ノーマンの著作はそのような風潮に対する警鐘ともなる.歴史を「物語」として再構成し,特定のイデオロギーに結びつける動きに対し,ノーマンが持つ批判的視点は時代を超えて有効である.この随想集を通じて,歴史の楽しさと奥深さ,そして学問的誠実さの重要性を再確認できる.歴史の女神クリオが微笑みながら見守るように,ノーマンの思想もまた,私たちが過去と向き合い,未来を考える上での静かな導き手となっている.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: THE SHRINE OF CLIO

Author: E. Herbert Norman

ISBN: 4003343719

© 1986 岩波書店