■「三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実」豊島圭介

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 [Blu-ray]

 禁断のスクープ映像,その封印が遂に紐解かれた!稀代の天才作家・三島由紀夫と,血気盛んな東大全共闘の討論会の全貌だ.時は1969年5月13日.東大駒場キャンパスの900番教室に,1000人を超える学生たちが集まり,三島を今か今かと待ち受けていた.旧体制変革のためには暴力も辞さない東大全共闘のメンバーが,この討論会の首謀者だ.世界各国が政治の季節に突入していたこの頃,日本でも自分たちの手で国を変えようとする学生運動が激化していた….

 京大学駒場キャンパス900番教室で行われた三島由紀夫と東大全共闘の討論会――1969年5月13日――は,戦後日本の思想史における一頁として語り継がれている.討論は対立を超え,時代の矛盾を浮き彫りにし,現代まで続く思想的問いを提起した.三島の言葉や態度,全共闘の論理性は,それぞれ異なる方向から同時代の精神を映し出している.当日,三島は警察から警護の申し出を受けていた.しかしこれを断り,ただ一人で会場に現れた.この選択は勇敢さ以上の意味を持つ.三島は,自らが「盾の会」という組織を率い,暴力や死をも思想の実践として取り込む覚悟を持つ存在であることを現に示した.全共闘が掲げた暴力革命に対する三島の批判は,理念上の反対ではなく,言論の責任を引き受ける覚悟の上で語られたものであった.

 討論が予定調和に終わらなかったのは,行動と思想の一体化という三島の態度が全共闘の理論的建前を超える説得力を持っていたからにほかならない.900番教室は,通常500人収容が限界であるにもかかわらず,当日は1,000人以上が詰めかけた.聴衆の中には,興味本位の者もいれば,真剣に思想的対決を目撃しようとする者もいた.三島の登場時には,会場が異様な緊張感に包まれたが,ユーモアのあるジョーク「君たちのカンパの半分でも『盾の会』に回してほしい」で一瞬にして和らいだ.三島は演出家としての資質を持ち,聴衆の心理を読み取る能力に長けていた.三島が特にこだわったのは時間の連続性と非連続性に関する問題であった.未来は過去と現在の積み重ねとして存在する立場を取り,一方の全共闘は現在を革命的に断絶し,未来を創造する非連続性の立場に立っていた.この対立は,日本文化の深層に潜む時間観を反映している.

 日本の伝統的な時間観は,季節の巡りや輪廻転生といった循環性を重視するものであり,三島の思想はこの伝統を背景に持ちながらも,同時に西洋的な線的時間観を取り込むという複雑さを孕んでいた.一方,全共闘の立場は,西洋の近代思想をベースとした進歩主義的未来観に依拠している.この点で両者の議論は,日本思想の東西折衷という根本的な対立を象徴していた.注目すべきは,討論の中で三島が"美"というテーマを暗黙のうちに議論の中核に据えていたことである.三島にとって"美"とは,観念や理想ではなく,行動によって現実化されるものであった.全共闘が唱える「未来の社会像」は,三島にとっては具体的な美の形を欠いた「ゼリー状の未来」に過ぎず,それゆえに批判の対象となった.一方で,全共闘の学生たちにとって,"美"とは破壊と再生プロセスの中にこそ存在するものであった.

 討論を通じて明らかになったのは,両者が同じ"美"を語っているようでいて,その実,全く異なる次元の言葉を用いている点であった.この討論の後,三島は自らの信念を行動で示すべく,1970年11月25日に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決する.討論から18か月後の結末は,討論の場で示した三島の思想と行動が一致していたことを物語る.討論そのものは勝敗を決するものではなかったが,三島と全共闘の対話は,時代の矛盾を照らし出し,個々の思想の限界と可能性を浮き彫りにした.この討論が現在においても語り継がれる理由は,歴史的な出来事としての価値だけでなく,現代における政治や文化の根本的な問いを引き継いでいるからである.三島由紀夫の生き様と全共闘の革命的理想は,一見対極にあるようでいて,どちらも時代を超えて語り続ける「意志」を共有している点で共通しているのである.

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原題: 三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実

監督: 豊島圭介

108分/日本/2020年

© 2020 映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」製作委員会