| 違法な労働条件で若者を働かせ,人格が崩壊するまで使いつぶす「ブラック企業」.もはや正社員めざしてシューカツを勝ち抜いても油断はできない.若者の鬱病,医療費や生活保護の増大,少子化,消費者の安全崩壊,教育・介護サービスの低下.「日本劣化」の原因はここにある――. |
ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)が1930年に述べた予言「21世紀の初頭には週15時間ほどの労働時間で事足りるであろう」は,楽天的な夢想でしかなかった.労働を巡る公正や規範が揺らぎ,労使関係の基盤が損なわれている現状は,個別の企業の問題ではなく,社会全体の衰退をもたらす危機として捉えるべきである.2000年代半ばに登場した「ブラック企業」という言葉は,法令を無視した労働環境や,従業員を酷使し使い捨てにするような企業を指す.長時間労働や過剰なノルマ,パワーハラスメントの横行,さらには賃金未払いなどの問題がその特徴である.このような企業の存在は,新卒者や若年労働者を中心に深刻な影響を与え,精神疾患や離職,さらには自殺に至るケースも少なくない.若者の就労難や社会保障費の増加,少子化,教育・介護サービスの質の低下といった「日本劣化」を急激に促進している.ブラック企業の問題を社会問題として強調する労働社会学者や活動家も多い.
専門家はこの問題を一部の悪質な企業の例外的な問題ではなく,構造的な問題として捉え,労働法規の普及や監督の強化を求める.しかし,法令遵守の徹底や労働者教育の推進だけでは,この深刻な問題に対処するには不十分である.実態解明において鍵となるのは,ブラック企業による「社会的損失」の試算と,そのインパクトを社会に示すことである.ブラック企業がもたらす損失は,個人の健康やキャリアにとどまらず,社会全体の生産性や活力を奪うものだ.厚生労働省は過重労働が疑われる事業所を重点監督し,違法な労働実態を是正した先例はあるものの,問題解決には至っていない.かつての日本型雇用慣行は,終身雇用や年功序列を基盤とし,労使間の暗黙の合意のもとで成立していた.もはやこのモデルが崩壊し,新卒採用で企業側が圧倒的に優位に立つ現在,労働者の権利意識が置き去りにされている.ブラック企業の問題は,この構造的な変化と深く結びついている.
日本の終身雇用制度は,戦後復興期において労働者の安定を目的として普及したが,元々は全ての労働者に適用されていたわけではない.多くの場合,大企業の正社員に限定され,非正規雇用者や中小企業の労働者はその恩恵を受けられなかった.この制度は,日本の労働者が滅私奉公とも称される献身的な働き方をする基盤となったが,その裏では労働者個人の自由を犠牲にしていた.注目すべきは,ブラック企業が短期的な利益を追求する一方,長期的には企業自身の成長も阻害する点である.離職率の高さや人材育成の欠如は,企業の競争力を低下させる要因となり,劣悪な労働環境は,消費者の安全やサービスの質にも影響を及ぼし,社会全体の信頼を損なう.世界的な事例に目を向けると,デンマークのフレクシキュリティ政策が注目を集めている.この政策は,企業の雇用柔軟性と労働者の社会的安全保障を両立させるもので,失業した労働者には手厚い支援が提供される.結果として,労働市場の流動性が高まりつつも,労働者の権利が守られることが期待される.
近年のアメリカでは,仕事中毒(ワーカホリズム)が問題視される一方,静かな退職(Quiet Quitting)と呼ばれる現象が問題視されている.労働者が過剰な業務や責任を拒否し,与えられた範囲内でのみ働く姿勢を示すもので,働き方の変化を象徴している.労働のブラック問題に対抗するには,社会全体での戦略的思考が重要である.労働者自身が自罰的になることを避け,社会としてブラック企業の存在を許容しない文化を育む必要がある.厚生労働省の「若者応援企業宣言事業」のような取り組みは,中小企業と若年層のマッチングを改善し,労働環境の透明性を高める一助となるだろう.実験的な取り組みを導入することで,労働環境を改善し,ブラック企業の根絶に繋がる可能性がある.最終的に求められるのは,労働社会学の観点から,ブラック企業の実態をさらに明確化し,その社会的影響を定量化することである.こうした知見をもとに,政策立案や社会的啓発を進めなければ,日本社会の衰退を食い止め,持続可能な労働環境を実現することはできないと思われる.
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原題: ブラック企業―日本を食いつぶす妖怪
著者: 今野晴貴
ISBN: 9784166608874
© 2012 文藝春秋
