▼『日本の精神鑑定』内村祐之,吉益脩夫〔監修〕

日本の精神鑑定 [増補新版]――重要事件25の鑑定書と解説 1936-1994

 精神鑑定書を同時代史の一資料として残すことは精神鑑定医の使命である‥‥『日本の精神鑑定』(みすず書房,1973年)と『現代の精神鑑定』(福島章編著,金子書房,1999年)を併せ,新たに編集を加えて一書とした新版をここに刊行する.昭和から平成初期までに起きた事件の実際の精神鑑定書および,担当した精神科医を中心に書かれた解説25組.時代と人間をあぶり出す,唯一無二のドキュメントである――.

 と精神医学が交差する精神鑑定は,個別の事件における事実認定だけでなく,社会全体の価値観や倫理観を反映する重要な役割を担っている.この手法は,刑法や民法,刑事訴訟法の枠組みにおいて,多様な形で実施される.法的観点と医学的観点の相互作用を通じて,裁判や社会制度における判断を支える精神鑑定の主要な役割は,裁判官や検察官が法的判断を下す際に,被告人や被疑者の精神状態を評価し,その資料を提供することである.刑法第39条に基づき「心神喪失者の行為は罰しない」と規定されているが,「心神喪失」「心神耗弱」をどう判断するかは,法律家の判断に委ねられている.精神鑑定の結果はあくまで補助的資料であるため,裁判官の裁量によって採用が決まるが,多くの場合,鑑定結果が判決に重要な影響を与えている.刑事事件における責任能力の判断は,精神鑑定の中でも重視される分野である.責任能力は,被疑者が犯罪を行った際に,自らの行為の結果を理解し,それをコントロールできる精神的能力を有していたかどうかを問うものである.完全な責任能力を欠く状態は「心神喪失」,部分的に減退している状態は「心神耗弱」とされ,前者では無罪,後者では刑の軽減が行われる.こうした判断は,精神科医の専門的知見に基づく評価を欠いては正確に行うことができない.

 民事事件においても精神鑑定は重要であり,行為能力や成年後見制度の適用可否を判断する際に活用される.成年後見制度は,判断能力が不十分な人を法的に保護するために設けられた制度であり,その判断には精神医学的な評価が欠かせない.鑑定を通じて,当人の判断能力の程度や,意思表示が正当に行われたかどうかが検討される.精神鑑定は,日本における司法制度の近代化とともに発展してきた.明治時代に西欧法体系が導入されたことで,精神医学と法が交差する場面が生まれ,戦後の法改正とともに鑑定の技術と精度が向上したのである.阿部定事件(1936年)は,精神鑑定が注目された初期の事件の一つであった.この事件では,阿部定の異常な行動に対する世間の関心が高まり,彼女の精神状態が大きく議論の的となった.鑑定では,幼少期からの環境や心理的要因が詳細に分析され,異常な行動が衝動性と執着心に基づくものであると指摘された.この事件は,鑑定が社会的スキャンダルとして報道されることが多かった時代の象徴であり,精神鑑定の公的利用が始まるきっかけとなった.

 金閣寺放火事件(1950年)は,文化財破壊という衝撃的な行為に隠された心理的要因を探るため,精神鑑定が重要な役割を果たした事件である.犯人の心理背景を分析した結果,極度の劣等感や社会からの孤立が動機の一部であると判断された.この事件は,個人の精神状態が歴史的・文化的財産にまで影響を与えるという点で,社会全体の倫理観を問う機会ともなった.帝銀事件(1948年)は,戦後日本を揺るがせた大量殺人事件であり,鑑定の複雑さを示す好例である.犯人とされた平沢貞通の精神状態が議論の焦点となり,責任能力の有無が裁判の行方を左右した.鑑定では精神障害の可能性が示唆されたが,最終的には有罪判決が下された.この事件は,鑑定の限界やその結果が法的判断にどのように影響を及ぼすかについて,議論を引き起こした.昭和後期から平成にかけて,精神鑑定の技術と精度は飛躍的に向上した.この背景には,精神医学の進歩だけでなく,社会全体の価値観や倫理観の変化がある.精神鑑定は個別の事件解明だけでなく,法制度そのものの改革にも影響を与えることがあり,医学的知見だけでなく,裁判官や検察官との協働が求められる.これは,法的判断が社会的・倫理的文脈の中で行われるため,精神鑑定がその橋渡しを担うからである.

 一方で,精神鑑定の結果が絶対的なものとして受け入れられるわけではない点に注意が必要である.鑑定人の主観や技術的限界が鑑定結果に影響を与える可能性を考慮し,法曹と医学者の間で慎重な検討が求められる.精神鑑定はまた,社会や文化の変化を反映する学際的な活動でもある.精神医学の進歩により,犯罪行動に関与する脳のメカニズムが明らかにされつつある.これにより,犯罪者の心理をより深く理解することが可能となり,鑑定の精度向上が期待される.その一方で,技術の導入は倫理的問題を伴う.遺伝子情報や神経科学的データを鑑定に用いる場合,個人のプライバシーや人権が侵害される可能性が指摘されている.精神鑑定は法と医科学の融合であり,個別事件の裁定を支えるだけでなく,社会全体の倫理や価値観を問い直す.その歴史と現状を理解し,将来的な課題に対応するためには,法曹界と精神医学界の連携を強化し,鑑定の基準と方法を絶えず改良していく必要がある.精神鑑定書は,裁判資料としてだけでなく,同時代の社会と人間を映し出す歴史的記録としての価値も高く,その適切な保存と分析が今後の研究に寄与するであろう.なお,1999年『現代の精神鑑定』所収の連続幼女殺人事件(1988-1989年)は本書では除外されている.

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原題: 日本の精神鑑定―重要事件25の鑑定書と解説 1936-1994

著者: 内村祐之,吉益脩夫〔監修〕

ISBN: 4622087669

© 2018 みすず書房