| 芸術には人びとの心を打つ,何か根源的な力が存在する‥‥「音楽」「将棋」「マジック」「絵画」で作品や技術が生み出される過程や,そうした創造的能力に必要な脳の条件とはどういうものか.人間の言語能力を手がかりにして,美的感覚というものを背景とした「芸術の力」の核心に迫る.各分野の第一人者と,気鋭の言語脳科学者による知的対談――. |
芸術は人間の深層に根ざした表現であり,文化・娯楽的な活動にとどまらず,進化的・心理的・社会的な背景に基づく役割を果たしている.編者(脳生理学者)が提起する芸術はなぜ存在するのか?という問いは,芸術がなぜ人間にとって必要であるかを解明するための出発点である.この問いに対して,芸術は進化的な過程において人間の社会的・認知的能力を高めるために形成されたとする立場が取られる.芸術は,自然選択や性的選択を超えて,社会的結びつきや文化的共有を促進する力を持っているということだ.なぜ音楽は楽しいのか:曽我大介(指揮者・作曲家),なぜ将棋は深遠なのか:羽生善治(将棋棋士),なぜマジックは不思議なのか:前田知洋(クロースアップ・マジシャン),なぜ絵画は美しいのか:千住博(日本画家).
進化心理学の視点からは,芸術の起源が性的選択にある可能性が示唆されている.ダーウィニズムの理論を借りると,音楽や視覚芸術は生存に直結する機能を超えて,異性へのアピールや社会的絆を深めるための手段として進化してきた.この視点に立てば,芸術がもたらす感動や美的経験は,生物学的に根拠のある行動であることが理解できる.古代の洞窟壁画や装飾的な土器は,実用性を超えて,コミュニティ内での共有意識を形成する役割を果たした.脳科学の進展も,芸術とその影響を理解する上で重要な手がかりをもたらした.ミラーニューロンの働き――他者の行動を模倣し,共感や理解を生み出す神経細胞――は,音楽や絵画,舞台芸術などの体験において重要な役割を果たしている.演奏者の微細な表情や動きが観客に与える影響,その感情や意図を共感的に感じ取る過程は,ミラーニューロンによって説明できる.
編者が指摘するように,芸術は言語と同様に,抽象的な表現を通じて共感や理解を共有する手段となる.音楽や絵画の表現は,視覚的・聴覚的な言語として機能し,共通の感情や価値観を伝達する.言語と芸術は密接に関連しており,どちらも有限の要素から無限の表現を生み出す能力を持っている.音楽のフレーズや絵画の構図は,言語の文法に似た構造を持っており,それぞれが抽象的な思考を引き出す手段として機能する.ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)《フーガ》のごとく,パターンや対称性を持ち,それが美しさを生み出す.この点で,音楽と文学,絵画などの芸術は,同じ美的原則を共有していると考えられるだろうか.芸術は感覚と身体の動きによって成り立っており,身体性の重要性も見逃せない.
ピアニストが鍵盤を弾く動作や,画家が筆を運ぶとき,身体の動きが美的体験を生み出す.能楽や茶道に見られるような「型」の動作,マジシャンのマジックのように,身体的な動きと観客の視覚的反応を操作することで,新たな美的体験を創出することも可能だ.芸術の多くは身体的な知覚や動作を伴い,それが人間の深層的な感覚や思考と結びついている.芸術が持つ普遍性は,文化的・社会的な背景にとどまらず,人間の進化的な特性に基づいている.芸術は,社会的な結びつきや共感を促進し,集団としての生存を助ける役割を果たしてきた.これにより,芸術は娯楽や趣味の領域を超えて,人間社会の中で不可欠な自らの感情や価値観を表現し,他者と共鳴し,共感を深めることができるのである.
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原題: 芸術を創る脳―美・言語・人間性をめぐる対話
著者: 酒井邦嘉〔編〕
ISBN: 4130033719
© 2013 東京大学出版会
