| 一九五四年三月,焼津港を出た漁船第五福竜丸は,魚を求めてビキニ環礁のあたりにいた.乗組む二十三人の漁夫たちは,故郷に妻や恋人や親たちを持つ,平凡な人々だった.三月一日の午前三時四十二分,乗組員たちは夜明け前の暗やみの中に白黄色の大きな火の柱が天に向ってたちのぼるのを目撃した…. |
マーシャル諸島ビキニ環礁沖での水爆実験で「死の灰」を浴びた静岡県焼津の木造遠洋マグロ漁船第五福竜丸では,23人の乗組員が活動していた.爆発地点から150kmも離れた場所で操業していたにもかかわらず,23人全員が放射線障害を起こし,半年後に無線長の久保山愛吉が死亡した."ブラボー"という戯けた名前がつけられた米国水爆実験の事前通告は,日本の海上保安庁や水産庁にはなされていなかった.逆に,第五福竜丸はスパイ活動をしていたのではないか,と言い放った米政府は,ABCC(原爆傷害調査委員会)の医師による被曝者検査を提案した.
日本の医師団は提案を拒絶したが,水爆データは機密とされ非公開,法的責任はうやむやにされ米側に翻弄されている.この事件は,国内の反核運動を加速させ,1955年広島での第1回原水爆禁止世界大会開催の発端となった.実際,第五福竜丸事件がきっかけで,日本国内の学校給食での魚の消費が一時的に激減するという社会的影響も発生した.この事件は世界的にも反響を呼び,日本の反核運動を象徴する出来事となった.黒澤明も当時,第五福竜丸を題材にした作品の構想を持っていたが,政治的な圧力や資金の問題で実現しなかったという.
「身体の下に高圧線が通っている」「原爆被害者は私が最後にしてほしい」と絶叫し死んでいった久保山の願いもむなしく,第五福竜丸乗員の放射能症は「放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響」と明記された報告書を根拠とし,米国政府は水爆との因果関係を認めないスタンスをとり続け,久保山の死因は輸血による肝炎とされた.遺骨を抱えて焼津へと帰る列車内の妻のもとに,乗り合わせた乗客が次々に近づいては黙礼する.小田原駅では高校生らが花を捧げ,静岡駅では県知事が黙祷を捧げる.第五福竜丸展示館が東京都江東区に開設されたのは,その後の反核運動の一環であった.
展示館には当時の資料や第五福竜丸の船体の一部が保存され,訪れる人々に事件の記憶を今に伝えている.製作資金難や上映配給難をかかえながらも,大映の配給をとりつけた作品だが,朝鮮特需による高度経済成長を極めようとする時勢下,興業的には失敗だった.しかし,原水爆の直撃を受ける被爆と,放射能汚染による被曝の脅威は,両者の間に本質的な差があるわけではなく,有事でもない状況でひたひたと襲ってくる恐怖をいたずらな虚飾を排したドキュメンタリー・タッチで描き,観る者は迫真性に引き込まれるのだ.長い年月に耐えて,再評価をみる典型的な作品である.
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原題: 第五福竜丸
監督: 新藤兼人
110分/日本/1959年
© 1959 近代映画協会=新世紀
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