▼『震える舌』三木卓

震える舌 (講談社文芸文庫 みE 3)

 その予感は娘の発作で始まった.極限の恐怖に誘われる衝撃の作品‥‥平和な家庭での,いつもの風景の中に忍び込む,ある予兆.それは,幼い娘の,いつもと違う行動だった.やがて,その予感は,激しい発作として表れる.<破傷風>に罹った娘の想像を絶する病いと,疲労困憊し感染への恐怖に取りつかれる夫婦.平穏な日常から不条理な災厄に襲われた崇高な人間ドラマを,見事に描いた衝撃作――.

 い娘が破傷風に感染し,一家が直面する極限状況を描いた,鮮烈かつ衝撃的な作品である.著者が自らの実体験を元に執筆したものであり,娘が破傷風菌による感染症に苦しんだ闘病体験が核となっている.医学的描写に留まらず,家族の絆や人間の精神の深淵を描き出す点で,文学的価値が高い.物語の始まりは,娘の異変に気づく両親の戸惑いである.幼い娘が身体に現す異常は,最初は些細なものに見えるが,やがて明らかな病理へと展開していく.食事を拒否し,奇妙な歩き方をし,赤いポストや物音に過敏に反応する姿に,次第に両親の不安は募る.夜毎の下顎の痙攣や舌の咬傷が続く中,両親は当初,これを心因性のものと考えた.しかし症状の激烈さにただ事ではないと悟り,診療所や救急病院を訪れるも,正しい診断に辿り着けないまま,無情にも時が過ぎていく.ようやく大学病院で破傷風の診断が下された時,娘の命を守るための闘いが始まる.

 治療が即座に開始されるものの,破傷風特有の過敏性のため,娘はわずかな物音で激しい痙攣を繰り返し,呼吸困難に陥る.付き添う両親は,寝る間もなく看護に追われる中,自身も感染するのではないかという恐怖に苛まれ,次第に精神的に追い詰められていく.この描写は,闘病記を超え,極限状態における人間心理を容赦なく描き出す.破傷風は日本ではほとんど見られなくなったが,途上国では年間5万人以上の死者を出しており,その死亡率は現在でも50%に及ぶ.日本では1948年に破傷風の予防接種が法定化されたことで発症率が劇的に減少したが,土壌中に潜む破傷風菌は今でも存在しており,傷口から侵入することで感染が起こる.この菌は嫌気性で,酸素を嫌う環境下でのみ増殖する特性を持つ.そのため,汚れた釘や土に触れることで感染リスクが高まる.破傷風菌が生成する毒素テタノスパスミンは神経系に作用し,筋肉の痙攣や硬直を引き起こす.

 破傷風の記録は古代エジプト時代に遡り,ヒポクラテス(Ἱπποκράτης)の時代にはすでに症例が記録されていた.戦場でもその恐ろしさが知られ,第一次世界大戦中には多くの兵士が破傷風で命を落とした.しかし,抗毒素療法やワクチンの開発が進むにつれ,その脅威は次第に抑えられていった.本作が描く破傷風は,こうした歴史的文脈を思い起こさせ,現代においてもその脅威が完全には消えていないことを示唆している.本作では,医学的な背景を読者に伝えると同時に,病魔に侵される子供を前にした親の悲嘆や諦観,病的な精神状態に至るまでの過程を冷徹に描き出している.著者は,執筆にあたり,自らの過去の体験も作品に反映させた.幼少期に腸チフス,小児麻痺,ジフテリアに罹患し,また満州からの引き揚げの途中で父を失い,多くの死体を目にしたという.このような幼少期の体験が,本作の菌と宿主の闘争に対する洞察を深めている.

 破傷風菌は,生きている限り毒素を出すという生命の邪悪な本質を示しており,宿主である人間との共存の不可能性が強調される.医療が勝利しても,菌が勝利しても,結局その結果はどちらかの滅亡に繋がるという宿命観――それは戦記文学に近い印象を与える.病棟という戦場での死闘は,家族という小さな共同体の崩壊と再生をも描き出し,平穏な日常が突然の災厄に襲われる物語は,不条理な恐怖を喚起する.同時に人間の力強さと脆さをも鮮烈に描き出している.著者は破傷風事件の半年後に発表した詩集『わがキディ・ランド』においても,娘の闘病体験を暗示する詩を綴っている――うなされている ぼくの娘は いま しきりに なにかとたたかっている――断片的な句は,極限状況における人間の葛藤,その予兆が現実となった小説へと昇華されたのである.

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原題: 震える舌

著者: 三木卓

ISBN: 4062901080

© 2010 講談社