▼『俺はNOSAKAだ』野坂昭如

俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰

 誰にも書けない世界だけを,書き続けた.ノサカ・アキユキ・リターンズ!稀代のトリックスターが素顔を明かし感動極まる表題作,前人未到の絶品「骨餓身峠死人葛」,最後の小説「戦争童話集沖縄篇 石のラジオ」など短篇の他,「火垂るの墓」の原点「プレイボーイの子守唄」,「山椒魚」末尾削除問題への疑問,大島渚監督への詫び状,田中角栄追悼の名エッセイ,さらに坪内祐三との対談を附す――.

 争の記憶,ユーモアと哀感の同居,そして人間存在への鋭い問いである.表題作は,名前の表記ミスという些細なユーモアから,個人のアイデンティティに迫る物語である.昭和二十年六月五日の神戸空襲に触れ,過去と向き合うシーンは,特有の緊張感と詩情をはらんでおり,名前の綴り違いがもたらす自己の分裂と再確認は,日常に潜む不安定さを巧みに映し出す.「プレイボーイの子守唄」は,『火垂るの墓』を思わせる深い哀しみを秘めた作品である.十四歳の少年が妹を守るために奮闘する姿とそのエゴイズムは,戦時の焼跡で孤立した野坂の実体験が投影されている.

ぼくは,恵子を愛していたと自信をもっていえるが,食欲の前には,すべて愛も,やさしさも色を失ったのだ(「プレイボーイの子守唄」)

 妹を失ったことが生涯の傷となり,後に作品の多くで繰返し描かれるテーマとなったことを考えると,この短編が持つ意義は計り知れない.妹の死をきっかけに執筆された『火垂るの墓』は,直木賞を受賞しながらも,発表当初は売れ行きが芳しくなかった.1988年の高畑勲監督によるアニメ映画化を契機に再評価され,現在では戦争文学の金字塔とされる.「骨餓身峠死人葛」は,野坂文学の中でも異彩を放つ.炭鉱町を舞台に,死体を養分に育つ「死人葛」の実を団子にして食べるという異様な描写は,エログロ要素とシュールな寓話性を併せ持っている.

 物語がもたらす不気味さは,社会の底辺に潜む欲望と絶望をあぶり出し,ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)の絵画やラテンアメリカ文学の魔術的リアリズムを連想させる比喩的世界観が迫ってくる.「死の器」では,養老院を舞台にした滑稽でありながら温かな人間模様が描かれる.死を目前にした老人たちの生き様をユーモラスに描きながらも,そこに宿る深い孤独を浮かび上がらせる手法は見事である.本書の随筆やエッセイもまた,野坂文学の多面性を理解する上で欠かせない.大島渚監督との殴り合い事件の謝罪文,田中角栄への追悼エッセイには,独特のユーモアと社会批判精神が滲み出ている.

俺は,別物になってしまったのではないか,いや,べつの人間の意識をこれまで生きてきたのではないか,少なくとも,昭和二十二年十二月末に実父と会って以後は.逆にみれば,それから現在につながる時間が本当で,以前は虚ともいえようが,俺の記憶の手ざわりからいえば,田島谷姓であった時のそれが,はるかにたしかで,ちょうど,あまり現実離れしている夢をみる時,ああこれは夢なのだと,自ら納得して,しかしなお身をゆだねているような按配なのだ(「俺はNOSAKAだ」)

 三島由紀夫との交流を描いたエピソードでは,作家同士の意外な一面を垣間見ることができる.個性的な逸話の数々は,著者が文壇や政界において特異な立ち位置にあったことを物語る.戦争,貧困,家族,自己というテーマを通じて,文学のみならず多様なメディアで自らの思想を表現してきた文体はしばしば句読点を省略し,語り口にリズムを与える工夫がなされている.この特徴は,文学にジャズ的な即興性を持ち込みたかったことを反映しているという.語りには皮肉と愛情が同居し,それぞれの物語に織り込まれた記憶と想像力の交錯により,著者自身が戦後を通じて感じていた社会との乖離や不確かさが表現されている.

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原題: 俺はNOSAKAだ―ほか傑作撰

著者: 野坂昭如

ISBN: 4103166118

© 2016 新潮社