▼『かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた』ウラジーミル・アレクサンドロフ

かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた:二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯

 厳酷な黒人差別社会に見切りをつけたミシシッピ生まれのフレデリックは,海を越えて旧大陸へ渡り,帝政時代のモスクワでアメリカン・ドリームを掴むのだが‥‥ロシア文学の碩学による,まるで物語のような歴史ノンフィクション.アメリカ南部の社会,爛熟する帝政末期のモスクワの夜,そして,第一次世界大戦とロシア革命の勃発.激動の時代を背景に描かれる,不屈な男の,凄まじくも痛快で爽快な魂の遍歴――.

 史とはしばしば,虚構を超える数奇を刻む.アメリカ南部ミシシッピ州で生まれ,苛烈な人種差別を背景に故郷を追われたフレデリック・ブルース・トーマス(Frederick Bruce Thomas)の人生は,旧大陸ロシアで富貴の夢を実現し,やがて激動の20世紀ヨーロッパで全てを失う壮絶な軌跡である.ロシア文学研究者による丹念な調査によって,驚くべき人生が鮮やかに描き出される.アメリカ南部の深刻な人種差別の中で,フレデリックは黒人としての生活に限界を感じた.ニューヨークへ移り住み,バレットとして働きながら歌の技術を磨いた後,ヨーロッパへ渡ったフレデリックは多言語を操る才能を活かし,ホテル業界でのし上がる.ロンドン,モンテカルロ,そして帝政末期ロシアのモスクワへとたどり着いたフレデリックは,高級ナイトクラブ「マキシム」を開業し,富と名声を手にした.

 マキシムは多くの貴族や新興富裕層を引きつけ,社交の中心地となった.ロシアでは急速な都市化と中産階級の台頭が進行した.劇場,映画館,カフェ,ナイトクラブといった娯楽施設は,都市文化の象徴としての役割を果たし始めていた.マキシムはその最先端を行く存在であり,当時の社交界で名を馳せる重要拠点となったのである.19世紀後半から20世紀初頭にかけて,帝政ロシアが欧米の植民地主義とは異なる形で異文化を受容していた点も見逃せない.当時のロシアにおいて黒人の存在は非常に珍しく,フレデリックはエキゾチックな魅力とカリスマ性によって注目を集めた.フレデリックの経営するクラブは,ロシアの娯楽文化の発展と中産階級の勃興を象徴していたことを,詳細に描いている.

 フレデリックが導入した新しい形式のショー,アクアリウム庭園など斬新なサービスの提供は,当時の都市文化の需要に応え,ロシアにおける新しい余暇文化の象徴として機能した.しかし,1917年のロシア革命により,全財産を失ったフレデリックは,オデッサやコンスタンティノープル――現在のイスタンブール――での再起を余儀なくされる.オデッサを経てコンスタンティノープルに逃れたフレデリックは,レストラン経営で新たに財をなす.本書で特筆されるべきは,黒人エミグラントの成功譚を超えて,時代の有為転変における個人の躍動を描いていることである.革命前のモスクワの享楽的な繁華街や革命後の混乱した都市の様子を詳述しており,フレデリックを取り巻く歴史的文脈を説明している.異国の地において身一つで成功を収めたフレデリックの強靭な精神力,不屈の努力はまさに驚異であった.

 アメリカ南部の苛烈な人種差別とは比較にならないほど,当時のロシアとトルコでは黒人に対して寛容だった.一方,フレデリックが常に家族や故郷を思い続けていたことも本書は明らかにしている.残された手紙には,郷愁や人種平等への希望が綴られていた.同時に,本書はフレデリックの成功がいかに儚く,激動の歴史の中でいかに脆いものであったかも示している.経営事業が傾き,多額の負債を抱えたフレデリックは貧窮に陥り,トルコの債務者監獄で死亡した.個人の力では抗いきれない時代の波に翻弄される人間の物語は,およそ半世紀後のアメリカ公民権運動や黒人実業家たちの活躍と通じるものがある.歴史に埋もれた無名の実業家フレデリック・ブルース・トーマスは,イスタンブールのパンガルティ・カトリック墓地に眠っている.

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Title: THE BLACK RUSSIAN

Author: Vladimir E. Alexandrov

ISBN: 9784560097229

© 2019 白水社