| 中国で,遣唐留学生「井真成」の墓誌が発見されたというニュースは,まだ耳に新しい.国家の使節として,また留学生・留学僧として海を渡った人々は何を担い,何を求め,何を得てきたのだろうか.遣隋使と遣唐使を統一的にとらえる視点から,七,八,九世紀の約三百年にわたる日本古代外交の実態と,その歴史的な意義を読み解いていく――. |
遣唐使は,唐の制度や文物を導入する目的で派遣されたが,その構成には時代的変遷が見られる.初期の遣唐使は中小氏族や渡来系氏族の出身者が多く,実務的な性格が強かった.第二期以降になると,大伴,中臣,藤原といった大和朝廷以来の名家が使節として選抜されるようになる.この変化を日本の文明化の段階として考察する著者は,日唐の交流を史料『延喜式』『懐風藻』『続日本後紀』などを通じて実証している.難破や漂流,沈没の危険に直面しながらも渡航した遣唐使の航行の実態を明らかにしている.日本に本格的な戒律,儀礼を伝え,唐招提寺を開いた鑑真と門弟は最も重要であるが,同時に,遣唐使を介して日本にやってきたインド僧やベトナム(林邑)僧,さらにはペルシャ人やイラン人の存在も忘れてはならない.
遣唐使外交は,日中間の交流にとどまらず,より広範な国際交流の一環であった.遣唐使として渡航した日本人留学生の墓誌が唐の都・西安の東郊から出土した事実は,遣唐使の歴史的実態を裏付けるものであり,知的興奮を覚えずにはいられない.井真成の墓誌には「尚衣奉御」と記されており,墓誌は漢詩を交えた高度な文学性を持つことから,真成が皇帝から重用され知識層に属していた可能性は高い.遣唐使の航海は過酷を極めたが,それを支えた技術も考察すべき点が多い.遣唐使船は4隻編成が基本であったが,出航時には海流と風を計算し,できるだけ安全なルートを選択していた.それでも,途中で難破する船が相次ぎ,多くの命が失われた.
唐に渡る航路には北路と南路があり,時代によって選択が異なった.北路は朝鮮半島沿岸を経由し,比較的安全なルートとされたが,新羅との関係が悪化すると南路が選ばれるようになった.南路は現在の長崎県から東シナ海を横断し,直接江南地方へ向かうもので,嵐や海賊の危険が伴った.日本の外交史を論じる際に,鎖国体質というイメージに陥ることなく,倭国の政治・外交上の使命を史実に基づいて追跡することは重要である.しかし,この視点を堅持する研究者は決して多くない.著者は,1955年以来,戦後の教科書検定に関与した森克己の『遣唐使』の記述が,遣唐使に関する教科書の記述に与えた影響を指摘する.
朝廷は推古朝以来,中国と外交上対等に接してきたと考えている人が多いのではないだろうか.研究者の間でも,そのような見方が長らく常識となり,日本からの国書は外交上の名分を争う種とならないよう,持参されなかったという考えも一般化していた.それが改められ,日本が唐に国書を差し出していたことが認められたのは,一九八〇年代も後半になってからである.これには,第二次大戦前からのナショナリズムが,冷静な認識を妨げてきたことも影響しているだろう.昭和戦前期以降,唯物史観による研究が芽生え,盛んになっても,その関心は国内史中心で,国際関係への注目は,いわゆる六〇年安保以後のことである
国史から歴史へのパラダイム転換を意図するものであり,本書の意義を際立たせるものである.国家の使節として,あるいは留学生・留学僧として海を渡った人々は,何を担い,何を求め,そして何を得てきたのか.その問いに答えるためには,遣隋使と遣唐使を統一的に捉え,300年にわたる日本古代外交の実態とその歴史的意義を多角的に読み解く必要がある.最初期の遣唐使に同行した道昭は,帰国後に日本で初めて火葬を行ったとされる僧侶であり,唐からの文化的影響が葬制にまで及んでいたことを示している.遣唐使を文化交流の手段と捉えるのではなく,そこに関わる人々の実像と多国籍的な交流を踏まえた上で,新たな歴史像を構築することが求められている.
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原題: 遣唐使
著者: 東野治之
ISBN: 9784004311041
© 2007 岩波書店
