| 1926年12月.世界的推理作家のアガサ・クリスティは,新作の執筆に行き詰まり,また私生活では夫から離婚を迫られ苦悩していた.そんな彼女の元へ元従軍看護師メイベルが訪れ,6年前に友人が列車内で何者かに殺された事件の謎を解明するよう依頼する.一度は断ったアガサだが,事件の内容に興味を惹かれ…. |
アガサ・クリスティ(Agatha Christie)は1926年12月に11日間失踪した.この謎めいた出来事はいまだ解明されておらず,数々の憶測を呼んできた.本作は,クリスティ失踪期間の出来事を大胆に創造した歴史フィクションである.クリスティを演じたルース・ブラッドリー(Ruth Bradley)は,作家としてのスランプと夫の不貞に苦しむクリスティを,優雅な佇まいで表現している.作家の誇りと妻としての絶望,その双方に苦悩するミステリーの女王を生身の女性として提示する.物語の核となるのは,クリスティが架空の名義を用いて,ある未解決殺人事件を捜査するという筋書きである.被害者はフローレンス・ナイチンゲール・ショア(Florence Nightingale Shore).実在の看護師であり,第一次世界大戦後に帰国する途中,列車内で何者かに襲われ命を落とした.実際の殺人事件とクリスティの失踪を結びつけ,クリスティが密偵として事件を解決しようと奮闘した仮説を描く.
クリスティは,ショアの親友メイベルの依頼を受け,すべての容疑者を田舎の館へと集める.そこで遺産分配という名目のもと,彼らの真の姿を暴こうとするが,事件は小説の中のように都合よくは進まない.容疑者の一人が突然殺害されるなど,物語は緊迫した展開を見せる.本作は,クリスティ作品へのオマージュを随所に散りばめながら,失踪事件に新たな解釈を加えた意欲作である.クリスティの代表的なミステリー小説『アクロイド殺し』『そして誰もいなくなった』に見られるような,閉鎖空間で容疑者と推理者の対決構造が用いられ,観客はまるでクリスティの小説を読むように,じわじわと高まるサスペンスを味わえる.歴史的事実とフィクションを巧みに織り交ぜたこの作品には,細部にわたる時代考証と緻密な脚本が光る.クリスティが行方不明になった当時,イギリス中を巻き込む大規模な捜索が行われた.
騒動が新聞の一面を飾るなど,人気作家の失踪がいかに社会現象となったかが再現されている.実際,ハロゲートのホテルで「テレサ・ニール」という偽名を使って滞在していたことが判明している.この偽名が夫の愛人の名前に似ていたことから,失踪は計画的な休息ではなく,心理的な要因が関与していたのではないかという憶測を生んでいる.クリスティ本人はこの出来事について自伝の中で一切触れていない.ミステリーとして興味を引きつけるが,あくまでテレビ映画としての枠を超えない地味な作品である.BBCドラマに見られる端正な演出が中心であり,派手な映像美や劇的なクライマックスは期待できない.しかし,1920年代の英国の空気感を再現した美術セットや衣装デザインにはこだわりが感じられ,落ち着いたクラシックな雰囲気を醸し出している.クリスティが潜入するホテルの装飾,登場人物の衣装はシックで美しい.
クリスティの失踪が生んだ数々の憶測の中で,こうしたフィクションが成立すること自体,クリスティの物語が時代を超えて魅力的であるかを証明している.クリスティは劇中で"メアリー・ウェストマコット"という偽名を使用している.実際に,この名義で1930年から1956年の間に6冊の小説を発表している.クリスティが最後に見つめる写真は,2番目の夫マックス・マローワン(Max Edgar Lucien Mallowan)が1930年代にシリアのテル・ハラフで撮影されたものである.このことから,ラストシーンが映画の出来事の数年後であることが示されている.クリスティは最新作のタイトルを"Death on the N-"へ書き直す.1937年に初出版された"Death on the Nile"(ナイルに死す)である.英国の伝統を受け継ぎながら,ミステリーの女王への敬愛に満ちた本作は,日曜の午後にゆったりと楽しむのにふさわしい作品である.
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原題: AGATHA AND THE TRUTH OF MURDER
監督: テリー・ローン
92分/イギリス/2018年
© 2018 Darlow Smlthson Productions
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