| スコットランドの孤島の別荘.哲学者ラムジー氏の妻と末息子は,闇夜に神秘的に明滅する灯台への旅を夢に描き,若い女性画家はそんな母子の姿をキャンバスに捉えようとするのだが‥‥第1次大戦を背景に,微妙な意識の交錯と澄明なリリシズムを湛えた文体によって繊細に織り上げられた,去りゆく時代への清冽なレクイエム――. |
意識の流れの手法を駆使し,時間の流れと記憶の作用を繊細に描いた20世紀モダニズム文学の傑作.ラムジー家の人々とその周囲の人間関係を軸にしながら,知覚の移ろい,人生の儚さ,芸術の本質といったテーマを静かに掘り下げていく.物語は三部構成となっている.第一部「窓」では,幼いジェームズが灯台へ行くことを夢見ながら,両親や招かれた客人たちとの一日を過ごす.ここでは,母親のミセス・ラムジーの視点を通して,家族の関係性や社会の在り方が細やかに描かれる.ラムジーの美しさとカリスマ性は,家族や客人たちの心を一時的に結びつけるが,それは決して恒久的なものではない.ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)は,感情の微細な変化を捉えつつ,それがいかに儚く,時間の流れの中で消えていくかを示す.第一部は,家族という単位の中で発生する一瞬の調和と,対比によって,現実を映し出している.
この子はまだ六歳だったが,一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず,喜びや悲しみに満ちた将来の見通しで今手許にあるものまで色づけしてしまわずにいられない,あの偉大な種族に属していた.こういう人たちは年端もいかぬ頃から,ちょっとした感覚の変化をきっかけに,陰影や輝きの宿る瞬間を結晶化させ不動の存在に変える力を持っているものなのだが
第二部「時は過ぎる」では,ラムジー家の別荘が時とともに荒廃していく様子が描かれる.わずか20ページほどの短い章でありながら,10年の歳月が過ぎ去る.第一次世界大戦で登場人物の幾人かが命を落とし,家族は変容を余儀なくされる.時間の経過が無慈悲に,かつ詩的に描かれる点で,ウルフの文体は極めて独創的である.第二部は,時の経過の描写にとどまらず,記憶と忘却の関係をも問い直す.家族が不在の間に家が朽ちていく様子は,過去の出来事が次第に記憶の中で風化していく過程と重なり,時の無常を強調する.第三部「灯台へ」では,ジェームズと父親のミスター・ラムジーがついに灯台へ向かう.第一部で叶わなかった旅が現実のものとなるが,そこに幼き日の憧れの面影はない.ジェームズは成長し,父との関係にも変化が訪れる.並行して,画家ブリスコーが絵を完成させる場面が描かれる.彼女が「ラインを引いた」と確信する瞬間は,画業の完成とともに,芸術が持つ形而上的な存立を象徴している.
ブリスコーの芸術は,時間を超えて意味を持ち得るのか,それともただの一時的な満足に過ぎないのか――本作の根底に流れる「芸術とは何か」という問いに対し,ウルフは明確な答えを与えない.画家の視点は,観察と創造の間で揺れ動く芸術家の心理を表し,最終的には,芸術が時間を超越する可能性を示唆するものとなっている.本作は,時間の流れが個人の記憶や感情にどのように作用するかを描きつつ,同時に,視点の流動性と意識の断片を巧みに織り交ぜた作品である.ウルフ自身,本作の執筆にあたって,自身の母親ジュリア・スティーヴン(Julia Prinsep Stephen)の記憶と向き合っていたことが知られている.ミセス・ラムジーのモデルが彼女の母であることは広く認められており,ウルフの文学は個人的な肉親関係から生まれたものである点で注目に値する.ミセス・ラムジーの存在感は,現実に失われた過去の象徴であり,登場人物たちが彼女の記憶を通じて自己を再発見していく過程が,本作の主題のひとつである.
今わたしが触れているこの女性の頭や心の部屋には,王侯の墳墓に収められた宝物のように,聖なる碑文を刻んだ石板が並べられていて,もしその碑文が解読されれば人生のさまざまな謎が解けるかもしれないのだが,あいにくその石板が公開されることは決してないだろう
ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)『ユリシーズ』と並んで,ウルフは「意識の流れ」という手法を洗練させた作家とされるが,ジョイスが圧倒的な情報量と詳細な描写を通じて意識の奔流を表現したのに対し,ウルフは感情や思考の儚さを,より詩的かつ直感的に描き出した.ウルフの文体は,印象派絵画にも通じる視覚ビジョン的な美しさを持ち,ブリスコーの芸術観とも響き合う.印象派が光と色彩の変化を捉えようとしたように,意識の断片を精緻に組み合わせることで,時間の流れのなかに浮かび上がる真実を描き出した.本作が発表された1927年は,モダニズム文学が成熟期に入った時期であり,同時代にはT・S・エリオット(Thomas Stearns Eliot)『荒地』やウィリアム・フォークナー(William Faulkner)の初期作品も発表されている.ウルフはモダニズムの潮流の中で,時間,記憶,芸術の問題を独自の方法で探求し,その文学的実験は後の世代にも多大な影響を与えた.
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Title: TO THE LIGHTHOUSE
Author: Virginia Woolf
ISBN: 4003229118
© 2004 岩波書店
