| 約三万人の死者を出した,悪名高い「インパール作戦」.この負け戦を指揮した陸軍中将・牟田口廉也はそれまで,日本陸軍を代表する「常勝将軍」と呼ばれていた‥‥作戦はどのような経緯を経て実行され,なぜ失敗に至ったのか?数々の思惑がぶつかり合ったインパール作戦は,「牟田口=悪」という単純な図式には回収できない.牟田口の生涯を追い彼の思想や立場を明らかにしつつ,作戦が大本営に認可されるまでの様々な人物・組織による意思決定の過程を分析する――. |
太平洋戦争は将来の展望が開けないまま開戦した戦争だった.戦況不利が確実となってきた日本軍の補給軽視と楽観的な戦略が招いた数々の敗北の中でも,インパール作戦はその愚行の最たる例である.インパール作戦は,日本軍がビルマ(現ミャンマー)戦線を防衛するために考案された攻勢防御の一環として発案された.作戦の発端は,南方軍総司令官・寺内寿一大将が1943年秋にインド侵攻を示唆したことにある.これを受け,ビルマ方面軍司令官・河辺正三中将のもとで具体的な作戦立案が進められた.牟田口廉也は,日中戦争で独断専行し,太平洋戦争初期にはマレー作戦で一応の成功を収めたが,それが慢心を生み,致命的な判断ミスを連発する要因となった.
牟田口はインド攻略が日本軍の戦局を大きく好転させると信じ込み,補給の確保を完全に無視した無謀な作戦計画を推し進めた.1944年1月,大本営はインパール作戦を正式に認可したが,楽観的な見通しの作戦実行に関しては様々な問題が山積していた.日本陸軍内部では,ビルマ方面軍の参謀たちを含め,多くの軍人がこの作戦に反対した.インパール攻略には膨大な補給が必要なことは明らかで,英軍の制空権を考慮すれば持続的な補給線の維持は不可能と指摘された.しかし,牟田口は批判を「臆病」と切り捨て,反対者を次々に更迭,作戦途中で3個師団の師団長を全員解任するという前代未聞の事態を引き起こした.牟田口は「50日でインパールを落とす」と豪語しながら,兵士たちにはわずか3週間分の食料しか持たせなかった.
補給が途絶した場合は牛馬を食えと命じたが,そもそも牛馬は渡河や山岳地帯で次々と失われ,食糧計画は初期段階で破綻していた.兵士たちは餓死寸前に追い込まれ,敵の死体から食料を奪うような悲惨な状況に陥った.敵戦力を過小評価し,作戦の杜撰さを露呈した牟田口は,英軍の制空権を完全に無視し,補給路が遮断されことを想定すらしていなかった.さらに,現地の気候や地形,マラリアなどの病原体の脅威すら軽視し,兵士たちは戦闘以前に過酷な環境で命を落としていった.最も愚劣なのは,彼が作戦の失敗を悟りながらも撤退を決断できなかった点である.上官の河辺正三が前線を訪れた際,牟田口は「顔色で察してほしかった」と言い訳し,作戦中止の決断を避けた.
無責任な態度が,多くの将兵の命を奪う結果となった.作戦の失敗を兵士たちの精神力の欠如のせいにし,「将兵がもっと頑張れば勝てた」と発言するなど,自らの判断ミスを絶対に認めなかった.戦後,牟田口は一時沈黙を守ったが,英国の戦史家がインパール作戦を好意的に扱ったことで急に弁明を始めた.しかし,日本の戦史研究者からは相手にされず,責任転嫁に終始した彼の言動は,歴史における汚点として記録されることとなった.本書は,「牟田口=悪」という単純な図式には回収できないという論調を作ろうとしているが,約3万人もの死者を出したインパール作戦は,作戦指導の愚劣さを象徴するものであり,牟田口廉也はその最たる責任者である事実は何ら変わらない.どうしようもない馬鹿に権限を与えれば,人が死に組織は腐るという当たり前の話である.
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原題: 牟田口廉也とインパール作戦―日本陸軍「無責任の総和」を問う
著者: 関口高史
ISBN: 4334046169
© 2022 光文社
