▼『歴史修正主義』武井彩佳

歴史修正主義-ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで (中公新書, 2664)

 ナチによるユダヤ人虐殺といった史実について,意図的に歴史を書き替える歴史修正主義.フランスでは反ユダヤ主義者の表現,ドイツではナチ擁護として広まる.1980年代以降は,ホロコースト否定論が世界各地で噴出.独仏では法規制,英米ではアーヴィング裁判を始め司法で争われ,近年は共産主義の評価をめぐり東欧で拡大する.本書は,100年以上に及ぶ欧米の歴史修正主義の実態を追い,歴史とは何かを問う――.

 史学は,可能な限りの史料を駆使し,合理的な推論を積み重ねて全体像を描き出す.19世紀に確立された近代歴史学は,個人の主観を排し,実証的な手法を採用することで発展してきた.レオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke)「それが実際にいかにあったか(wie es eigentlich gewesen ist)」は,歴史研究の基本姿勢を示している.歴史を改変することが許されるのは,学術的な検証を経た場合のみであり,政治的意図による歪曲は厳しく批判されるべきである.だが,歴史の歪曲によって正当化される戦争や侵略は,過去において幾度となく繰り返されてきた.ナチスドイツはドイツ民族の生存圏(Lebensraum)を正当化するために歴史を利用し,大量虐殺と侵略を行った.同様に,日本の戦前の軍国主義も,アジア解放の名のもとに侵略戦争を正当化し,歴史の改変を試みた.

歴史の修正の目的は,政治体制の正当化か,これに不都合な事実の隠蔽である.現状を必然的な結果として説明するために,もしくは現状を批判するために,歴史の筋書きを提供する.これが「主義=イズム」としての歴史修正主義だ

 歴史を改変する目的は,現在の評価を変え,未来の選択肢を操作することにある.修正主義者は否認ではなく執拗に疑義を呈し,相対主義的な議論に持ち込むことで,事実と虚偽の境界を曖昧にしようとする.オルタナティブ・ファクト,ポスト真実と同じ構造をもち,このような歴史修正主義的な言説が加速度的に拡散するようになった.第二次世界大戦のホロコースト否定論者は,ネット上で虚偽の証拠を提示し,科学的・歴史的に証明されている事実を歪めようとする.冷戦終結後,旧共産圏諸国でも歴史修正の動きが見られる.ソ連による解放の物語に対し,バルト三国やポーランドはスターリン時代の悲惨さを強調し,共産主義の犯罪を否定する歴史記述を禁止する立法化を進めた.こうした動きに強く反発したのがロシアであり,プーチン政権は歴史を戦略的武器として利用してきている.

 中国においても,文化大革命や天安門事件に関する公式の歴史記述は厳しく統制され,国家の正統性を維持するために歴史の改変が行われている.今日,ヨーロッパの多くの国でホロコースト否定は法的に禁止されている.歴史否定がヘイトスピーチの一形態と見なされるためである.一方で,歴史の司法化には慎重な議論が必要であり,学問の自由とのバランスが問われている.ホロコースト否定論は,欧米諸国において厳しく規制され,2000年のアーヴィング裁判では,ホロコースト否定が意図的な虚偽であると司法判断され,否定論の信頼性が完全に崩壊した.歴史修正主義の最大の問題点は,政治的目的のために過去を歪める点にある.特定の政治的主張を補強するために史実を隠蔽,歪曲,戦争犯罪の否認や加害責任の転嫁は,歴史修正主義の典型的な特徴である.

疑念だけを表明する点は,多くの歴史修正主義に共通する.問いを立てるが,証明はしない.主張する本人が証明できないことを知っており,証明するつもりもないからである

 E・H・カー(Edward Hallett Carr)は『歴史とは何か』において,歴史の客観性を否定する相対主義に警鐘を鳴らした.山を異なる角度から見ても形が異なるように見えるが,山そのものが存在しないわけではない――歴史の叙述には解釈が伴うものの,完全な主観に陥るべきではない.しかし,歴史的事実は過去にのみ存在し,文書を通じて再構築されるものであるため,歴史学には常に解釈が伴う.つまり,史料の選択,矛盾の調整,比重の配分などが不可避であり,歴史家の価値観や文化的背景も影響を及ぼす.客観的な歴史学の成果を無視し,イデオロギーに基づく歴史解釈を強行する立場は批判されるべきである.歴史学は新たな史料や再解釈によって変化しうるが,それは学術的な手続きを経た修正であり,恣意的な歴史修正とは一線を画すことを学ぶ入門書として本書はまとまっている.

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原題: 歴史修正主義―ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで

著者: 武井彩佳

ISBN: 4121026640

© 2021 中央公論新社