▼『最後の「日本人」』阿部善雄

最後の「日本人」: 朝河貫一の生涯 (岩波現代文庫 社会 94)

 朝河貫一は,明治六年賊藩二本松に生まれ,二一歳で渡米.英文の『大化の改新』で,エール大学哲学博士号を取得,『入来文書』の研究で欧米歴史学界に衝撃を与えた.一方,『日露衝突』『日本の禍機』などの著書で日露戦争以後の日本外交への批判に全力を傾注し,日米開戦を回避すべく奔走する‥‥激動の生涯を描く感動のヒューマンドキュメント――.

 島県郡山市には,「朝河桜」と呼ばれる桜が残されている.桜の名所は数あれど,個人名が冠された桜は珍しい.明治6年,旧二本松藩士の家系に生まれた朝河貫一は,21歳で渡米.大化の改新に関する研究で,日本史の客観性を磨くことに専念した.平和思想や国際関係思想が未発達であった時代,コスモポリタニズムは,アントニオ・ネグリ(Antonio “Toni” Negri)の重んじる連帯主義,ストア派哲学に依拠する神のロゴスの普遍的平和という2つの流れで発展してきた.今日の世界情勢でも,国連憲章に定められているように,国策遂行上の武力行使および威嚇は禁止され,およそ責任ある政治立場はすべて平和主義である.実態的には,世界中にセーフ・エリアは存在しない.武力制裁のみならず,経済制裁,領土問題での相互牽制など,世界は入り組んだ混迷状態にある.本書は,鋭敏な史観をもった歴史家であり,比較法制史の分野でも顕著な功績を遺した朝河の生涯を克明に辿る.日本人初のイェール大学正教授となり,1909年に主著『日本の禍機』で日米は早晩,戦争に突入することを警告し,その現実化を避けるために奔走した.残念ながら,歴史は朝河の危機感をひとつずつ具象化していった.研究書の体裁を本書はとっていないため,実証性の面では疑問が残る点もある.しかし,朝河は民主主義国家に要請されるべき倫理を考察し,一国の国益を超える「国際益」や,当時の日本外交の脆弱性を鋭く指摘していた意義を,本書は担うものである.ドナルド・キーン(Donald Lawrence Keene)は,特異な日本人を2名挙げたことがある.コロンビア大学の"無名の巨人"角田柳作,イェール大学で西洋中世法制史と東西封建制の比較研究でパイオニアとみなされていた朝河貫一である.

 キーンの目には,朝河は膨大な文献に埋もれ,謙虚で寡黙な学者に見えた.その卓越した国際感覚と,精緻な文明批判眼は,日露戦争でロシアのアジア侵攻を批判する一方,日本のアジア外交の強権性にも批判を加えた.朝河は国際関係のセオリーを,政治学と国民性分析に注力することで確立しようとしていたが,その該博な知識と洞察力は,世界的な視野を意識したものであった.歴史学者であるとともに,朝河は国際政治学者であったと,本書は述べている.第二次大戦中,朝河自身も「自分は歴史学者であるとともに,世界の事件に巻き込まれることを常習としている」と発言していた.1873年,下級武士の長男として二本松町に生まれた朝河は,幼少時より頭角を現していた.福島尋常中学校在学中の成績は,全学年を通じてトップを占め,特に語学力は抜群で,卒業式の答辞に演説した流暢な英文には,出席者も感嘆した.朝河桜は,朝河の英語学習の伝説を示すものである.朝河は毎日,英和辞典を2ページ暗記してはこれを破り,覚えた箇所のページを食べた.残ったカバーを若桜の根元に埋めたという.これが朝河桜の命名エピソードである.事の真偽はともかく,朝河天神とも称される比類なき努力は,他を圧倒していたことを物語っている.野口英世よりも3歳年上,大隈重信と角田とも親交を結ぶ朝河は,複眼的思考を備えていた人物である.同時代人には,伊藤博文,新渡戸稲造,坪内逍遥,高峰譲吉らがいる.いずれも「日米観」をそれぞれの立場から深める努力をした.朝河の場合,中学時代から目標に掲げていたことは,アメリカに留学して知識をつけ,日本文化の発展に貢献するということだった.

 1892年,東京専門学校(現・早稲田大学)を首席で卒業すると,大隈や徳富蘇峰,勝海舟らの渡航費援助により,ダートマス大学に編入,学生たちからは「サムライ」とあだ名をつけられた.大学で朝河が主として学んだのは,ドイツ語とドイツ文化である.わざわざ日本を飛び出して,アメリカの地で日本の歴史研究を行ったことは,朝河にとって,比較法制度史を専門に学ぶ上で不可欠なことだった.ダートマス大学長の援助とイェール大学の奨学金に恵まれ,イェール大学大学院歴史学研究科に朝河は進んだ.ここでも優秀な成績を上げ,学位論文「日本における初期の制度的生活,645年の改革の研究」すなわち大化の改新の研究テーマで博士号を取得.ダートマス大学講師に迎えられ,東西交渉史の講義担当となる.1904年『日露衝突』を刊行し,日本側のオブザーバーとして日露講和会議に出席し妥結を主張.「日本の戦争目的は賠償金,領土の獲得にあらず」との立場を表明した.朝河の考えと相違しない方向で会議は決着したが,日本国内ではこれを不服として日比谷焼打ち事件――日比谷の交番および新聞社焼打ち――が起き,日本は大陸侵攻への道を歩み始める.1909年『日本の禍機』を出版,日米の緊張関係を警告するが,朝河の懸念した事態は現実のものとなる.1940年イェール大に迎えられ,渡米54年のうち,36年は同大学に奉職することになった.日本人として初の正教授である.1941年,日米開戦直前には,当時の大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)から昭和天皇宛の草書起草に奔走し,太平洋戦争防止に努めたが,それはかなわなかった.しかし,ルーズベルトは,敵国の学者である朝河の思想と学問に敬意を払い,朝河の自由を保障し続けた.

 朝河は,アメリカ国籍を取得することなく,1948年8月11日,バーモント州ウェスト・ワーズボロの山荘で心臓麻痺のため死去した.その訃報は,AP・UPI電を通じ,「現代日本がもった最も高名な世界的学者の逝去」として世界を駆け巡った.戦争回避に尽力した朝河は,知人のハーバード大教授を通じて,ルーズベルトへ昭和天皇宛の書簡を送ることを要請し,書簡は確かに天皇のもとへ届けられた.しかし,それは朝河案とは異なる文面で,真珠湾攻撃の戦闘機が飛び立った後だった.『日露衝突』は英語で著され,乃木希典が率いた軍が203高地を進撃,ロシアのバルチック艦隊が北アメリカ南下していた1904年11月に,イギリスとアメリカで刊行された.国際関係論における平和思想は,個人の倫理観と国家の「意思決定」が一体となって「非安全」状態を招くことを懸念する.平和主義に含まれる要素,反軍隊,非武装や軍縮などは,武力の応酬を避けるために不可欠となる.その具体的手段を考案することを,朝河は歴史観の使命と考えていた.その生涯は,日清・日露戦争,日中戦争,太平洋戦争を日本が経験する時期に重なっている.朝河は,コスモポリタン思想を先進的に模索したパトリオティズムの立場だが,排外主義者ではなかった.2007年,朝河がイェール大学で教鞭をとった100年目を記念して,コネティカット州ニューヘイブンの大学構内に「朝河庭園」が開園した.約25平方メートルの園庭には,米国産の頁岩や山モミジなどが配置されている.平和学と日本と西欧の比較制度史論の多大な功績,大学の東アジア図書館長として史料収集を行った業績を永く称えるとともに,日米友好の継続を願うシンボルとして,朝河の銅像と,二本松藩の「戒石銘」「朝河桜」の記念植樹が行われている.

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原題: 最後の「日本人」―朝河貫一の生涯

著者: 阿部善雄

ISBN: 4006030940

© 2004 岩波書店