| 人びとは何をどのように食べて,空腹を満たしてきたのか.一膳飯屋,残飯屋,共同炊事など,都市の雑踏や工場の喧騒のなかで始まった外食の営みを,日々生きるための〈食〉の視点から活写,農村にもおよぶ広範な社会と経済の変化をとらえ,日本近代史を書き換える――. |
胃袋の視点から読み解くと,日本近代の食習慣と集団的な食文化は,相反しつつも互いに補完しあっていた.一人一人の食欲を追求する個人主義を反映している一方で,共同炊事や市営食堂の導入は,労働者や地域コミュニティが互いに支え合う集団的な営みの証左であった.明治末期から大正期にかけて各地で見られた勝手口文化――食事の余剰や不要な部分を持ち寄り,近所や商売仲間で融通し合う慣習――は,一見,家庭の裏側に隠された小さな食の流通システムのように思えるが,食糧の過不足という現代にも通じる社会問題を内包していた.昭和初期の東京では,飲食店が出した残飯を残飯屋が買い取り,安価に販売するシステムが成立していた.これはリサイクルではなく,都市の貧困層にとって不可欠な生活基盤であり,江戸時代の屑屋文化とも連続性を持っていた.敗戦直後の混乱期には,残飯屋は進化し,闇市の一部として機能し始めた.
GHQの統制下で食糧管理が厳格化する中,飲食店の裏口から出た食材が非公式に流通し,それを求める人々が長蛇の列を作ったという記録が残っている.都市の台所としての公設市場や中央卸売市場の整備も,食糧供給の場にとどまらず,経済政策や救済政策の一環として機能した.大阪が「天下の台所」と呼ばれるようになった背景には,江戸時代から続く商人たちのネットワークが近代化の波に乗って再編された経緯がある.明治期の大阪では,米相場の変動が都市労働者の食生活に直結し,食糧価格の高騰が暴動を引き起こすことすらあった.1918年の米騒動はその典型であり,富山の漁村の主婦たちが発端となったこの事件は,全国へ波及し,大阪の市場にも打撃を与えている.このとき,大阪の米商人たちは市場を守るために秘密裏に米を放出し,暴動の沈静化を図ったが,政府は公設市場の整備を急ぐ契機ともなった.こうした市場経済と民衆運動のせめぎ合いは,現代の食糧危機や流通問題とも通底する.
食品の大量生産・大量加工が進展する中で,漬物産業の発展や蔬菜栽培の拡大は,戦時下において軍需と家庭の食生活が奇妙に絡み合った事例として記録されている.戦時中,日本軍は食料の長期保存を目的に軍用漬物を開発した.ぬか漬けの乳酸菌が腸内環境を整える効果を持つことが評価された結果である.この技術が戦後のインスタント漬物産業の発展につながり,現代のパック漬物の原型となった.戦後の混乱期には,闇市で売られる浅漬けが一種の救済食として広まり,やがて食品企業による大量生産へと移行していった.農村と都市の関係性も,食を通して大きく変容した.昭和初期まで広く流通していた雑穀食が戦時政策により淘汰され,コメ中心の食生活が推奨されたことは,国民の健康だけでなく,農業経済そのものに影響を及ぼした.戦前の軍部は,強い兵士を作るには白米が必要と主張し,雑穀を貧しい食事とみなす風潮を生み出したが,皮肉にも戦後は栄養学の観点から雑穀が再評価されることとなった.
食堂や一膳飯屋の発展も,都市の労働者や単身者の生活戦略として,社会政策的意義を帯びた.戦後の大阪における一膳飯屋は,安価かつ迅速な食事提供の場としてだけでなく,都市の混沌とした生活環境において,食を通じたコミュニティ形成や健康管理の実践場としても機能していた.当時の一膳飯屋は,現代のファストフード文化の原点とも言えるべき存在であり,その歴史的背景はしばしば雑学として紹介される.庶民食としてカレーライスが広まった背景には,イギリス海軍の影響がある.明治期の日本海軍がカレーを採用したのは,イギリス海軍がビタミンB1不足による脚気を予防するためにカレー粉を利用していたからである.こうした多層的な食の歴史を紐解くと,現代における「食」が,栄養摂取の枠を超え,社会構造や経済政策,労働環境と深く結びついていることが理解できる.個人の胃袋が孤立的に満たされる一方で,共同炊事や市場といった集団的枠組みは,まさに社会全体のシステムの縮図であった.一見すると些細な食の変遷が,国家の経済戦略や労働者の生活改善,さらには地域コミュニティの再構築にまで影響を及ぼしていたのである.
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原題: 胃袋の近代―食と人びとの日常史
著者: 湯澤規子
ISBN: 481580916X
© 2018 名古屋大学出版会
