■「パッション」メル・ギブソン

The Passion of the Christ (Definitive Edition) [Blu-ray]

 紀元前のエルサレム.ある日,イエスは十二使徒のひとりであるユダの裏切りによって捕らえられる.イエスを尋問した大司祭カイアファは,イエスが自らを救世主であり神の子と認めたとして激怒し,イエスが神を冒涜したと宣告する.ローマ帝国総督ピラトのもとに身柄を移されたイエスは,そこでも揺るぎない姿勢をみせる.やがて荒れ狂う群衆に気圧され,ピラトはイエスを十字架の刑に処する判決を下す.凄惨な鞭打ちを受け変わり果てた姿となったイエスは,ついに十字架を背負いゴルゴダの丘へと歩を進める….

 ラム語とラテン語に支配された世界観,人間の原罪に対する懺悔と受難に満ちたイエス・キリスト(Iēsūs Khristos)の最期の12時間を妥協なく描いたとされる本作は,神の子としてのキリストに崇敬を捧げる史劇のように扱われながら,反ユダヤ主義の描写にも受け取れる.ヘロデ王治世下末期,キリストは成長してユダヤ教パリサイ派を批判し,12人の使徒とともに教義を新興する.人心を揺るがせた罪を問う裁判で,自らを神が遣わせた救世主だと述べて憚らないイエスは,冒涜者としてローマ帝国総督に身柄を引き渡される.パリサイ派とイエス教団の抗争は激化し,総督はイエスの処刑を求める司祭と群衆を説得できず,イエスに磔刑を言い渡す.キリスト教は,ユダヤ教への抗議(プロテスト)から影響力を強めた教団だった.本作に関し,ユダヤ教からは反ユダヤ主義,キリスト教内部からも残虐性を指摘された.メル・ギブソン(Mel Gibson)は批判に怯まず,キリストの受けた苦難を描くことで,愛や贖罪のメッセージを届けると語った.

 本作はアラム語,ラテン語,ヘブライ語で撮影された.ハリウッド映画としては異例の試みであり,俳優たちは撮影のために古代言語を学んだ.ジム・カヴィーゼル(Jim Caviezel)はキリストを演じるにあたり,鞭打ちのシーンで本物の鞭が当たり,さらには落雷まで受けるという稀有な体験をしている.磔刑のシーンでは体温が低下し,軽度の低体温症に陥った.カヴィーゼルはこの映画の撮影を「まさに受難の再現だった」と回顧している.ギブソンは本作の暴力描写を極限まで追求した.拷問のシーンでは,本物の鞭が用意され,キリストが背中に傷を負う場面が実際に撮影された.血の描写には特殊効果を最小限に抑え,できるだけリアルな肉体の損傷が伝わるよう工夫された.また,イエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘を登る場面では,カヴィーゼルが本物の十字架(約70キロ)を背負って演じ,何度も転倒した際に肩を脱臼した.このシーンはそのまま採用されている.撮影終了後,カヴィーゼルは本作の影響でハリウッドから半ば追放される形となり,大作映画への出演機会を大きく失うこととなった.

 長い年月を耐え,変質を遂げてきた一大宗教の伝道者を描くには,敬虔な宗教心だけでは得心がいかなかったことだろう.しかし,製作上の苦難を砦として最後まで製作者を支え続けたものは,やはり信仰心であっただろう.酒とドラッグに溺れ,12年間うつ病に苦しんだギブソンは,信仰によって自殺を思いとどまったという.精神疾患に苦しんだ12年と同じ年月,本作の構想を練り,アラム語とラテン語の脚本を手掛ける.27億円の私財を投じ,全米公開時には英語字幕をつけたほど情熱を傾けた.公開初年,米国成人人口の52%が本作を鑑賞している.「神の子」を迫害し続けたユダヤ人の悪業を,生々しい拷問で描くだけで飽き足らず,アラム語とラテン語に使用言語をほぼ限定した.このことは,キリストの死を求めて荒れ狂う群衆や司祭をユダヤ人の象徴として,愚かさを演出するのに決定的な意味を持たせている.月光で浮かび上がるゲッセマネの森から始まる映画は,深遠で神々しい佇まいのキリストをとらえる.報復主義のユダヤ教義を批判したキリストは,汝の敵を愛せとまで伝道した.

 人の弱き心を救済するための葛藤は,延々と映し出される拷問シーンを触媒にしなければ,イニシエーションとして描くことができなかったのか.この印象はキリスト教圏に縁遠い立場からの率直な感覚から兆すものだ.磔刑の場面で,キリストを十字架に釘付けにした手はギブソンのものである.「彼を十字架につけたのは私だ.彼をそこに置いたのは私の罪だ」と語っている.ギブソンはキリストの足――マグダラのマリアに洗われた――とユダの自殺のロープを縛る腕も担当した.ユダヤ属州総督ピラト(Pontius Pilatus)とユダヤ最高法院の2度目の対決には,「彼の血は我々の頭と我々の子孫の頭の上にかかっている」と言うセリフが含まれていた.これは「マタイによる福音書」27章25節から来ているが,ギブソンは,映画が反ユダヤ主義的というさらなる非難を避けるため,この部分の字幕を削除したが,アラム語の実際のセリフは映画に残された.十字架から降ろされた後,マリア(Maria Mother of Jesus)の腕の中に横たわるキリストのロングショットは,この場面の描写に多大な影響を与えたミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti)の彫像《ピエタ》からインスピレーションを得たものである.

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原題: THE PASSION OF THE CHRIST

監督: メル・ギブソン

127分/アメリカ=イタリア/2004年

© 2004 Twentieth Century Fox