| 〈社会への投資〉とは,個人への投資に加えて,人びとのあいだの信頼・協調関係への投資を行うことである.人びとが安心し,信頼しあって暮らしていける社会をつくるための新たな「社会的投資」のあり方を,諸外国との比較を通じて提言する――. |
人的資本の蓄積は,現代社会における持続可能な発展の鍵である.一般に,資源分配を通じて教育やスキルを向上させる政策は,世代を超えて有能な人材を輩出し,社会的損失を削減するだけでなく,外部経済として広く社会に恩恵をもたらす.一方で,人的資本への投資が消極的な社会では,外部不経済が生じ,それが社会的費用に転嫁され広範な層に負担を強いる結果となるだろう.幼児期の教育投資は社会全体の便益に寄与する重要な戦略であり,学術的および政策的に注目されている.アメリカで実施された「ペリー就学前プロジェクト」(1962-1967および追跡調査)は,幼児教育が長期的に及ぼす効果を具体的に示した.この研究では,低所得層の子どもたちに質の高い教育プログラムを提供し,その後数十年にわたり追跡調査を行っている.その結果,参加者は学業達成,雇用安定,犯罪率の低下といった成果を示し,社会全体に経済的利益をもたらした.この研究は,幼児教育への投資が短期的なコストを超える大きな社会的利益を生むことを明確に示したとして人口に膾炙している.
社会的投資とは,福祉を「投資」と捉え,[1]一人ひとりが潜在能力を発揮できる条件を整え,個人がリスク回避する可能性を高め,[2]社会(とりわけ就労)への参加を促すことで,社会的排除や貧困の解消をめざす.具体的な政策としては,さまざまな困難やケア責任を抱えた人びとが就労できるような社会サービス(保育,介護,生活者困窮支援など)の提供,教育・訓練を通じた技能形成と適切な評価,すべての人の参加を可能にする多様な就労形態や場の形成,最低所得保障が柱となる
UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)教育研究所による29か国のメタ分析では,幼児期に質の高い教育を受けた人々が成人期において「教育」「社会経済的地位」「雇用」の面で強い正の相関を示し,逆に「精神的健康」「身体的健康」「犯罪率」には負の相関が見られた.このデータは,教育が個人のリターンを超え,社会全体の健全な発展に寄与することを示したと解釈される.さらに欧州連合(EU)における教育政策は,所得格差の是正や社会的包摂を目指した取り組みが進んでおり,教育を通じた長期的な社会安定のモデルケースとされる.日本では,1950年代から1960年代にかけて実施された義務教育の完全普及により,識字率が飛躍的に向上し,国民全体のスキルが均質化された.高校進学率の急上昇は,日本が国際的に高い学力水準を維持する要因となった.また沖縄県では,1972年の本土復帰後に実施された教育振興策が注目される.この施策は,経済的に厳しい環境にあった地域に教育投資を集中し,その結果,県全体の学力向上や大学進学率の上昇をもたらした.
教育の成果を収益率だけで測ることには限界がある.1990年にUNESCOが提唱した「万人のための教育」目標では,教育は「すべての人の基礎的な学習ニーズを満たすための手段」であるとされ,その本質は経済効率性を超える普遍的価値にあるとされた.教育は個人の成長を促進するだけでなく,社会的包摂や文化的発展の基盤を提供するものである.北欧諸国,とりわけフィンランドの教育政策は,人的資本の蓄積と社会的安定を両立させた成功例として知られている.フィンランドでは無償教育制度を整備し,幼児教育から大学まで一貫した政策を実施してきた.国際学力調査(PISA)における高い評価は,教育の質が社会全体の幸福度や経済的安定に結びついていることを証明している.加えて,フィンランドの教育政策は,移民や社会的弱者の包摂にも力を入れており,教育を通じた多様性の尊重が一つの成功要因とされている.
こうした人的資本の蓄積の評価法として知られるミンサー方程式――個人の収入(W),教育年数(S),労働年数(X),推定すべきパラメータ(α, β, γ1, γ2),モデルに含まれていない収入に影響を与える他の要因(ϵ)を各係数とする――は,個人の収入や労働年数を基に人的資本の価値を算出する有用なモデルである.数十年後の収益率に与える教育の影響については,統計的に相関関係を推定することは可能である.残念ながら,それが因果関係を示しているとは限らない.なぜなら,教育を受けた子ども(処置群)と受けなかった子ども(対照群)を比較する際に,両者の誤差項(ϵ)に影響を与える要因が同じであるという強い仮定が成立しない場合,推定値にずれが生じる可能性があるからである.この問題は,個人が特定の施策を受けた場合に生じる処置効果(treatment effect)の推定において重要な論点であるが,社会的投資を推進する議論のなかでほとんど無視されている.
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原題: 社会への投資―〈個人〉を支える〈つながり〉を築く
著者: 三浦まり〔編〕
ISBN: 4000612549
© 2018 岩波書店
