| 「忘却」.それは「死」と「眠り」の姉妹.また,冥府の河の名前で,死者はこの水を飲んで現世の記憶を忘れるという.過去の事件に深くとらわれる中年男,彼の長女,次女,病床にある妻,若い男,それぞれの独白.愛の挫折とその不在に悩み,孤独な魂を抱えて救いを希求する彼らの葛藤を描いて,『草の花』とともに読み継がれてきた傑作長編.池澤夏樹氏の解説エッセイを収録――. |
福永武彦が福田恆存,加藤周一,中村真一郎らとともに形成した文学集団「マチネ・ポエティク」に端を発する詩的感性,西欧的なロマン主義の影響を色濃く映した小説である.マチネ・ポエティクは,戦後日本において西欧文学を参照しながらも,日本独自の詩精神を探求する場であり,押韻や定型詩に強い関心を示した.福永の代表作『冥府』『廃市』『海市』と並び,本書もまた「死」を凝視し,生を相対化する試みである.藤代一家の多様な視点を交錯させながら,三人称と一人称が混在する語りの形式を採用することで,象徴的な生死の意味が重層的に浮かび上がる.物語の中心に位置する藤代は,戦前の社会主義運動の同志を裏切った過去を抱えている.
かつて藤代を愛した看護婦は,藤代の裏切りを知って佐比の浜で入水自殺を遂げる.この出来事の記憶が藤代に罪の意識を植え付ける.藤代が立つ佐比の浜は,ギリシア神話のレーテー(忘却の河)を想起させるが,藤代が見下ろす濁った掘割は忘却の場ではない.忘却は,西欧においては冥府に至る過程で現世の記憶を消し去る浄化の作用を持つが,藤代にとって忘却とは,澱み,腐敗し,がらくたを浮かべながら沈んでいくプロセスである.死の受容ではなく,死に至る過程が持つ停滞と腐敗を意味する.福永は西欧的な忘却の概念を解体し,日本的な死生観に置き換える.それを端的に示すモチーフは,幼くして死んだ子供たちが親を待ち続けながら石を積み続ける「賽の河原」である.
藤代にとって,賽の河原への旅は罪の贖罪であり,死んだ恋人への鎮魂の儀式である.本書は西欧的な忘却のイメージと日本的な鎮魂のイメージを重ね合わせつつ,藤代が自己の罪と向き合い,内面の浄化と再生を目指す構造である.忘却は記憶の消失ではなく,自己の罪や傷を抱えながら,それを超えていくための内面的なプロセスである.藤代が感じる「澱んだ掘割」は,忘却そのものが持つ重苦しさ,それを超えた先にある「再生」の兆しだろうか.この再生の契機が,ギリシア神話「レーテー」の否定と賽の河原の受容によって成立していることが,本書の最も重要な主題である.
私は昔ギリシャ神話を読んで,うろ覚えに忘却の河というのがあったのを覚えている.三途(さんず)の河のようなものだろう,死者がそこを渡り,その水を飲み,生きていた頃の記憶をすべて忘れ去ると言われているものだ.しかし私にとって,忘却の河とはこの掘割のように流れないもの,澱んだもの,腐って行くもの,あらゆるがらくたを浮べているものの方が,よりふさわしいような気がする.この水は,水そのものが死んでいるのだ.そして忘却とはそれ自体少しずつ死んで行くことではないだろうか.あらゆる過去のがらくたをその上に浮べ,やがてそれらが風に吹かれ雨に打たれ,それら自身の重味に耐えかねて沈んで行くことではないだろうか
福永の文学には,西欧的ロマン主義と日本的死生観が複雑に交錯している.フランス文学を深く研究した作風にはアルベール・カミュ(Albert Camus),ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre)らの実存主義の影響も垣間見える.本書における再生の主題は,日本的な罪の意識と鎮魂の文化に根差した視点を持ち続けている.池澤夏樹が解説エッセイで指摘するように,本書が『草の花』と並ぶ福永文学の精髄であることに異論の余地はない.『草の花』では愛と孤独が対照的に描かれているが,本書では罪と再生がその中心にあり,記憶を超えた再生の物語として,福永文学の中で重要な位置を占め続けている.
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原題: 忘却の河
著者: 福永武彦
ISBN: 9784101115023
© 1969 新潮社
