▼『朗読者』ベルンハルト・シュリンク

朗読者 (新潮文庫)

 15歳のぼくは,母親といってもおかしくないほど年上の女性と恋に落ちた.「なにか朗読してよ,坊や!」‥‥ハンナは,なぜかいつも本を朗読して聞かせて欲しいと求める.人知れず逢瀬を重ねる二人.だが,ハンナは突然失踪してしまう.彼女の隠していた秘密とは何か.二人の愛に,終わったはずの戦争が影を落していた.現代ドイツ文学の旗手による,世界中を感動させた大ベストセラー――.

 人の少年と年上女性の関係の背景にはドイツ現代史,ホロコーストの記憶という重層的な主題が横たわっている.物語の舞台は明示されていないものの,ハイリゲンベルク,フィロソーフェンヴェークといった地名から,ハイデルベルクとその周辺を連想させる情報が巧みに配置されている.1944年生まれの筆者がハイデルベルクで育ち,法学者としてのキャリアを築く前から文学的感性を育んでいたことを窺わせる.

 ミヒャエルとハンナのミルテンベルクへの自転車旅行のルートも,出発地がハイデルベルクであれば地理的整合性を持つ.第2部に登場する裁判所が「車でほぼ一時間の距離にある別の都市」と描写されるのは,1960年代のフランクフルト・アウシュビッツ裁判を想起させる意図であろう.文体は全体として簡潔明晰,叙述部分ではパラタクシス(等位接続)が優勢である.章の冒頭に置かれる唐突な一文が物語に劇的転換をもたらす手法は,読者の注意を強く引きつける.一方,内省的場面では言葉が詩的な響きを帯び,記憶や感情が象徴的イメージとして結晶化する.

そのあとに起こったこと,当時すでにその兆候はあったものの,後になってようやく明るみに出た事柄を知っているために,こんなに悲しいのだろうか?なぜだろう?どうして,かつてはすばらしかったできごとが,そこに醜い真実が隠されていたというだけで,回想の中でもずたずたにされてしまうのだろう

 15歳のミヒャエルと36歳の女性ハンナの関係は「朗読」という儀式によって構造化され,ミヒャエルがハンナに物語を読み聞かせることで,ミヒャエル自身の自己形成も進んでいく.読書という行為が知性や感情の発露に直結し,古今の文学がミヒャエルとハンナの物語の駆動力となっている.しかしハンナは突如姿を消し,数年後,ミヒャエルは法廷で彼女と再会する.彼女はナチス時代の強制収容所で看守として働き,罪なき人々を死に追いやったとして裁かれていた.衝撃的な再会によって,ミヒャエルの過去と現在は劇的に交錯し,彼自身の内面に潜む倫理的ジレンマが露わになる.

 本書は,歴史的加害と個人的苦悩を二項対立で描くのではなく,両者の間に広がる歴史の暗部を見つめている.文語体で綴られる一方で,比喩やモチーフが随所に織り込まれ,象徴性の高い描写が印象深い.朗読と並行して,入浴という儀式的行為は,身体の浄化でありながら関係性の親密さ,あるいは罪の洗い流しといった意味を帯び,物語の中で繰り返し登場することで,感覚的記憶の反復装置として機能している.読書という行為そのものが記憶の再生であり理解の儀式であるとすれば,誰しも「読む」ことの意味を問わずにいられない.

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Title: DER VORLESER

Author: Bernhard Schlink

ISBN: 9784102007112

© 2003 新潮社