| 今から一世紀前.韓国・大邱で食い詰め,命からがら難破船で対馬海峡を渡った一族は,筑豊炭田の"地の底"から始まる日本のエネルギー産業盛衰の激流に呑みこまれ,豚の糞尿と密造酒の臭いが充満する佐賀・鳥栖駅前の朝鮮部落に,一人の異端児を産み落とした.孫家三代海峡物語,ここに完結――. |
孫正義の血脈を三代にわたって追い,韓国・大邱のルーツに至るまで丹念に足を運ぶ一方で,その動機には曖昧さがつきまとう.「愛情と根性の旅路」を描きたいという筆者の欲望は汲むに値するが,その方法は誇大的にセンセーショナルであり,出自暴露の快楽と,人物理解の不誠実さが,ページの上でねじれ合っている.人物評とルポが融合しきれず,断絶している.とはいえ,孫の来歴は,日本社会の構造的な「忘却」に対して鋭利な楔を打ち込むものでもあった.1956年,経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかに謳い,日本が本格的な高度成長に突入したその翌年,孫は佐賀県鳥栖の被差別地域に生を受けている.
豚の糞尿と密造酒の臭いが充満する集落で,在日朝鮮人三世として育った孫は,社会の表舞台とは正反対の場所からスタートした.一世紀前,孫の祖父にあたる人物は,朝鮮・大邱での生活に行き詰まり,難破船で命からがら対馬海峡を渡ってきた.戦前の日本による朝鮮半島の植民地化政策により,日本への渡航は命がけだった.筑豊炭田という"地の底"に労働力として呑み込まれたその一族の運命は,日本の近代化の影としての「在日」そのものを体現している.興味深いのは,孫正義が自身の出自について,ほとんど語らないという事実である.記者会見やインタビューでは「私は日本人です」と言い切り,通名(安本正義)を使っていた時期のことも多く語ろうとしない.
沈黙は自己演出ではなく,日本社会における見えない抑圧への反射的な適応であるとも読める.カリフォルニア大学バークレー校に留学した当初は,英語がほとんど話せず,辞書を片手に授業に出席していたという.だが,滞在わずか2年余りで,すでに輸入ビジネスを成功させ,帰国時には巨額の資金を持ち帰っている.この最短距離での突破力は,まさに異端であり,社会的な承認欲求の裏返しとも取れる.個人の特性や血統の文脈だけに還元しようとした時点で,筆者の筆は鈍っている.孫は「いかがわしさ」「野心」を自覚的に利用してきた人物であり,その実像は,時に国家や市場をも翻弄する構造的異物である.人物像に迫るには,出自や家庭環境といった外部的要因ではなく,孫自身が日本社会という装置をどう「演算」してきたかを問う必要がある.
ソフトバンクの社名に冠された「バンク」は,知の蓄積=情報のバンクという意味合いを持ち,そこには20世紀的なインフラ(電信・電話)から21世紀的インフラ(AI・半導体)への橋渡しを担うという野望が込められているという.つまり,創業者の孫にとって事業とは,つねに知の再定義なのである.孫家三代海峡物語――それは確かに劇的である.しかし,その劇性を過去に閉じ込めず,現代に生きる構造的問いとして開き続けるためには,単なる出自へのノスタルジーではなく,「異端」がいかにシステムに挑んだか,その痕跡を見極める冷静さと想像力が必要である.本書は低俗で不誠実な印象だけが残る.
++++++++++++++++++++++++++++++
原題: あんぽん―孫正義伝
著者: 佐野眞一
ISBN: 9784093882316
© 2012 小学館
