| 平凡無垢な青年ハンス・カストルプははからずもスイス高原のサナトリウムで療養生活を送ることとなった.日常世界から隔離され病気と死が支配するこの「魔の山」で,カストルプはそれぞれの時代精神や思想を体現する数々の特異な人物に出会い,精神的成長を遂げてゆく.『ファウスト』と並んでドイツが世界に贈った人生の書――. |
爛熟のロマン派を体現する初老の作曲家による“美”の理解は,陶酔のディオニソスと秩序のアポロンの「対立」を頑なに肯定する中にあった.『ベニスに死す』における頽廃の悲劇は,芸術の究極の官能と死との接近を描いたものであったが,それに対する風刺劇として構想されたのが,本書である.美に殉じたアッシェンバッハに対し,カストルプは「思想」に殉じる青年として位置づけられる.1912年,肺尖カタルで療養していた妻を見舞うため,トーマス・マン(Paul Thomas Mann)はスイスのダヴォスを訪れた.このときマンは,サナトリウム「ベルクホーフ」のモデルとなった療養所に3週間ほど滞在している.
当初は風刺的な短編小説として構想された本書は,第一次世界大戦を経て12年の歳月をかけて完成され,結果的に1,200ページ超の壮大な教養小説に昇華された.頽廃的で官能的なショーシャ夫人,進歩的合理主義者セテムブリーニ,神秘主義と破滅の狂信者ナフタ,現実主義の軍人ペーパーコルン──これらの人物は世界観や思想を体現する理念的人物として読まれるべきである.平凡な青年カストルプは,23歳で肺病にかかり,この隔絶されたサナトリウムに足を踏み入れた.7年間に及ぶ療養生活は,外界からの時間感覚と切り離され,同時に「死」に隣接する病者たちとの交流を通じて,自己の精神を深く掘り下げる経験となる.雪山で遭遇する吹雪と幻視──太陽の子らが幸福に生きる世界と,鬼女が幼児を喰らう神殿のイメージ──は,まさにロマン主義的二項対立を象徴する.
理性と狂気,愛と死,秩序と混沌.ここに,ヒューマニズムの神話的生成が見られる.古代ギリシア悲劇のカタルシスの再構築でもあり,アポロ的世界へのディオニュソス的侵入という形で,ニーチェ的美学への応答とも読める構造を持つ.第一次世界大戦の開戦によって魔の時は終わり,青年は戦場へ向かう.フランツ・シューベルト(Franz Peter Schubert)《菩提樹》を口ずさみながら,死の香りに満ちた戦地へと赴くカストルプの姿には,時代に投げ出された魂の比喩が濃厚に漂う.マン自身の政治思想の変遷もまた,この作品に陰影を与える.第一次大戦前夜には,帝政ドイツを擁護し,西欧的デモクラシーを軽薄な文明の産物とみなしていたマンは,1918年の『非政治的人間の考察』においてその見解を明確にしている.
しかし,戦後の講演「ドイツ共和制について」(1922年)では,民主主義の擁護を公言するに至る.マンの思想的遍歴は,理念と現実の相克に苦しむ「知識人の魂」の証言であり,本書の複層的構造に深く浸透している.ドイツ古典的教養小説(Bildungsroman)では,青年が世間の荒波に揉まれながら自己形成を遂げるのが定型であるが,世俗の喧噪から隔絶されたサナトリウムという閉鎖空間,病と死を常に意識する人物群の停滞した時間感覚の中でこそ,魂の成長は遂げられるという逆説的な提示である.ダヴォスは現在,経済フォーラム(WEF)で知られるが,20世紀初頭には死の空気が漂う結核療養地として,近代の終末的象徴でもあった.そこには,病と時間,死と思想,芸術と政治をめぐる壮大な精神の戦場が広がっていた.
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Title: DER ZAUBERBERG
Author: Thomas Mann
ISBN: 4003243366, 4003243374
© 1988 岩波書店

