▼『ゾルゲ追跡』F.W.ディーキン,G.R.ストーリィ

ゾルゲ追跡 上 (岩波現代文庫 社会 73)

 時局を見抜く目と完璧な偽装.その男の諜報活動は精緻にして大胆だった.時は大戦前夜.風雲急を告げる極東情勢.日本はソ連を攻めるのか,アメリカと戦うのか.スパイ・ゾルゲ.暗号名「ラムゼイ」.その行動と悲劇的終末を描破する傑作――.

 平洋戦争開始直前に発覚した大規模な国際スパイ事件「ゾルゲ事件」は,日独の政治,経済,外交,軍事の最高機密をソ連に流していた諜報グループが続々と検挙された事件である.嫌疑を受けた35人は,国防保安法,軍機保護法,治安維持法,軍用資源秘密保護法違反で起訴され,主犯格であるソ連共産党第4本部所属リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge),元満鉄嘱託・尾崎秀実の2人は,1944年11月7日に巣鴨拘置所にて絞首刑に処された.ゾルゲは,第一次大戦従軍後,マルクス主義に傾倒しドイツ独立社会党に入党,コミンテルン情報書記局員を務め,ソ連邦共産党に入党した.在中国諜報機関を組織した上海で,当時朝日新聞記者であった尾崎と知り合う.コミンテルンの命を受けて"偽装"のためナチス党へ入党,ドイツの有力日刊紙フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員として来日.第1次近衛文麿内閣のもとで内閣嘱託を務めるなど近衛のブレーンとして活躍していた尾崎の協力とともに,日本通かつナチス党員を武器に駐日ドイツ特命全権大使の全幅の信頼を得て,ゾルゲは大使の私的顧問として大使親展の機密情報にアクセスできる位置を確立した.1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟後には,この利点を存分に生かした活動を行った.

 画家の宮城与徳,通信員ブランコ・ド・ブーケリッチ(Blanko de Voukelitch),写真技術者マックス・クラウゼン(Max Christiansen-Clausen)らを組織したゾルゲ・グループの使命は,満州事変以降の日本の対ソ政策,対ソ攻撃計画を探知,日本のソ連への侵入を阻止することにあった.諜報活動は,1936年の二・二六事件以降活発化したが,きわめて的確な情報収集,分析力を発揮したことが明らかである.ゾルゲがソ連共産党に報告したのは,日本の武器弾薬,航空機,輸送船などのための工場設備や生産量,鉄鋼の生産量,石油の備蓄量などに関する最新の正確な数字であった.さらには,ゾルゲは独ソ戦のバルバロッサ作戦開戦日を正確に予測し,日ソ中立条約を理由に,日本がソ連と戦争する意志のないことを見抜いたのである.逮捕後,ゾルゲと尾崎は処刑,ヴーケリッチや宮城は獄死していったが,敗戦後の1945年,獄中の生存者8名が他の政治犯たちとともに釈放されるまで,ソ連政府はスパイとしてのゾルゲを黙殺し続けた.本書は,ゾルゲ事件に対する司法的手続きに関して日独で公表された資料,未公開記録,同時代人たちの多くのヒアリングに基づいている.

 国際共産主義とファシズムの研究で著名なF.W.ディーキン(Frederick William Deakin)は,オックスフォード大学セント・アントニース・カレッジ初代学長,G.R.ストーリィ(Richard Storry)は,同カレッジ日本研究教授.序文にあるように類書は多いものの,「牢獄と法廷の暗がりで行われた証言」こそ実質的部分といえるゾルゲ事件のイデオロギー的な諜報活動の特徴は,本書でよく捉えられ,いまや古典的な意義をも有している.一方で,ゾルゲ事件の関係資料は,旧特高関係者にとっては公職追放の理由になるので,ほとんどが破棄処分あるいは秘匿された.そのため,ディーキンとストーリィが取材,執筆した当時に入手しえた文書以外にも,闇に葬られた資料が相当あるとみなければならない.翻訳に際しては,元特高警察の大橋秀雄から筑摩書房と訳者に対する抗議,名誉棄損で告訴がなされた(結果としては不起訴処分).ゾルゲと尾崎の処刑時の死亡時間や処刑前のやりとりすら,2004年に公式文書が発見されるまで諸説が入り乱れていたのである.戦後,事件を再調査したGHQの英文リポート(1947年8月)の末尾に添付されていた公式便せんには,本籍,罪名,裁判経過,死刑執行の言い渡し状況などが記入されていた.

 尾崎の処刑は1944年11月7日午前9時33分から同51分.「瞑目し職員に謝礼し,南無阿弥陀仏を二唱し執行を受く」.ゾルゲの刑執行は,同日午前10時20分から同36分.「職員に対し『皆さまご親切有り難う』を繰り返し」たという.ヨーロッパにおける自己破壊と,果てしない戦争の繰返しの原因を取り除くためには,国際共産主義の実現が不可欠とゾルゲは考え,その運動に身を投じた.尾崎は,帝国主義戦争の阻止と日中ソ提携の実現に理想をみた.法政大学大原社会問題研究所編集の『日本労働年鑑 特集版』(1965年)によると,1964年9月には,ソ連の代表的な諸新聞が,「共産主義者にして諜報員,英雄であった同志リヒアルト・ゾルゲ」をしきりに紹介しはじめた.事件の資料編集にあたった小尾俊人は,「時が移り『冷い戦争』が過去の悪夢として歴史の額縁にはまったときにこそ,ゾルゲ・グループは,いかなる社会的立場からも偏見もて見らるることなく,ただその心情的主体的動機と,行動のヒロイズムと,悲劇的終末とが大きく映し出されるようになるかも知れない」と書いている.歴史の額縁にはまったときとは,必ずしも時間の経過のみを意味しているわけではないであろう.

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Title: THE CASE OF RICHARD SORGE

Author: Frederick William Deakin, Richard Storry

ISBN: 4006030738, 4006030746

© 2003 岩波書店