▼『オリガ・モリソヴナの反語法』米原万里

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)

 1960年代のチェコ,プラハ.主人公で日本人留学生の小学生・弘世志摩が通うソビエト学校の舞踊教師オリガ・モリソヴナは,その卓越した舞踊技術だけでなく,なによりも歯に衣着せない鋭い舌鋒で名物教師として知られていた.大袈裟に誉めるのは罵倒の裏返しであり,けなすのは誉め言葉の代わりだった.その「反語法」と呼ばれる独特の言葉遣いで彼女は学校内で人気者だった.そんなオリガを志摩はいつも慕っていたが――.

 原万里は,すぐれた翻訳家であると同時に秀逸なエッセイストでもあった.米原は,来日したボリス・エリツィン(Борис Николаевич Ельцин)の随行通訳を務め,駄洒落と犬猫をこよなく愛し,橋本龍太郎から受けたセクハラにも毅然と耐え,ノンキャリア外交官時代の佐藤優について「あなたはいずれ必ず文筆家になる」と予言した.本書は,彼女の来歴と感受性が結晶化した,異色の長編小説である.1960年代,チェコスロバキア・プラハ.日本人留学生の少女・弘世志摩は,ソビエト学校に編入する.そこには,旧式の民族衣装をまとい,洗練された舞踏技術を持つ教師,オリガ・モリソヴナがいた.

 モリソヴナは「アルジェリア」という単語に異常な恐れと嫌悪を示し,大仰な称賛と辛辣な罵倒を逆説的に駆使する「反語法」で,生徒たちの畏敬を集めていた.志摩は,そんなモリソヴナに強い憧れを抱くが,やがて彼女の過去には拭いがたい謎が潜んでいることに気づく.さらに,モリソヴナと親しく交わるフランス語教師,彼女たちを「お母さん」と呼ぶ転校生ジーナの存在も,志摩に不穏な疑念を抱かせた.物語の後半,大人になった志摩は,ソ連崩壊直後の1992年,混沌としたモスクワを訪れる.かつて抱いた疑問を解き明かすべく,旧友や関係者を探し歩き,モリソヴナの過去を丹念に辿る.そこで浮かび上がるのは,ひとりの天才ダンサーの悲劇的運命だった.

 スターリン体制下における粛清,特権階級ノーメンクラトゥーラの腐敗と搾取,そして為政者たちの異様な人間性と,それに翻弄された民衆の悲劇である.米原自身も,1960年代にプラハのソビエト学校に9歳から14歳まで在籍していた.父親が日本共産党の高官であり,駐チェコ大使館員としてプラハに赴任していたためである.東欧社会主義世界の空気は,郷愁ではなく,細部に至るまで物語に生々しく反映されている.特筆すべきは,モリソヴナの「魂の自由」の描写である.彼女は,強制収容所において自ら針のようなカミソリを自作し,隠し持っていた.誰にも強制されずに死を選び得る自由──わずかな選択権こそが,モリソヴナに生き抜く力を与えた.

 皮肉なことに,死を見据える覚悟が,より強靱な生への執念を生んだのだ.モリソヴナの反語法もまた,言葉を逆さにすることで,絶望の中に生の可能性を見出す術だった.家族を粛清で失いながらも,モリソヴナは言葉と踊りを武器に,生死の境界線を歩み続けたのである.米原は晩年,悲劇と笑いは表裏一体であると語っていた.本書にあふれるユーモラスな筆致も,その信念の表れだろう.また,エリツィン通訳時代,酒宴の席でとっさに駄洒落を交えた訳出を行い,場を和ませたという逸話が残っている.本書に流れる軽妙な反語法の感覚は,その才気の延長線上にある.

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原題: オリガ・モリソヴナの反語法

著者: 米原万里

ISBN: 4087478750

© 2005 集英社