▼『マイノリティーの拳』林壮一

マイノリティーの拳: 世界チャンピオンの光と闇 (新潮文庫 は 61-1)

 かつて拳で世界の頂点に立った黒人ボクサーたち.しかし引退後の人生は栄光ばかりではない.世界3階級制覇のバークレーは,いまだにリングに上がり,噛ませ犬を演じていた.ウィザスプーンは,家事と子育てに追われながら再起に挑んでいた.プロモーターやマッチメイクで選手生命が左右されるプロボクシング界の実態を明かし,チャンプたちとの魂の交流を描く力作ノンフィクション――.

 で世界を制した者たちは,その拳にこそ真実が宿ると信じていた.その信仰がいかにして裏切られ,自らの人生を再構築しようとしたかを,実名のチャンピオンたちを通して描き出すノンフィクションである.ティム・ウィザスプーン(Tim Witherspoon)は,1980年代にマイク・タイソン(Mike Tyson)と肩を並べる実力者と評された元WBA・WBC世界ヘビー級王者である.キャリアの全盛期には悪名高いプロモーター,ドン・キング(Donald "Don" King)の傘下にいたが,その後,熾烈な契約争いによって転落を迎える.ウィザスプーンは,キングを相手取って損害賠償訴訟を起こし,訴訟費用に生活費を削られる中で裁判を戦い抜いた.訴訟は,黒人ボクサーたちが置かれていた不平等契約の構造を公的に告発する先駆けとなった.

 アイラン・バークレー(Iran Barkley)もまた,栄光と破滅を両極で体現する人物である.1988年,スーパースターのトーマス・ハーンズ(Thomas Hearns)を番狂わせでKOし,一夜にして名を世界に轟かせた.しかし,栄光の陰で家庭生活は常に不安定であり,離婚と訴訟の連続,果ては蓄財にも失敗する.2000年代にはニューヨーク・ブロンクスの路上で金を無心する姿を目撃され,ホームレス同然の生活をしていたことが地元紙によって報じられた.本書が浮き彫りにするのは,ボクシング界における構造的搾取の実態である.プロボクサーは,華々しく見えるタイトル戦の裏で,しばしば奴隷契約に近い形で拘束されている.名プロモーターたちは,契約に巧妙な条項を組み込み,選手がファイトマネーや試合の決定権を奪われたままキャリアを続ける不幸を恒常化させた.

 本書の価値は,この搾取構造に個々の人間の顔と声を与えた点にある.著者はインタビュアーとしてではなく,彼らの家庭に足を踏み入れ,時間を共にし,しばしば私生活にまで踏み込む距離感で物語を紡ぐ.さりげない挿話の中に元王者らが生活に困窮する場面など,拳で世界を制した者の「いま」を,人間的なまなざしで捉えている点において感慨深い.バークレーは全盛期,試合前には必ず母親に電話をし,「聖書の一節を読んでくれ」と頼んでいたという.こうしたディテールが,彼らの「拳」以上のもの,すなわち人生観や信仰,家族との絆を伝える.

 ボクシングというスポーツ自体が,歴史的に社会的マイノリティの登竜門であり続けた点は否定できない.中重量級以上では,19世紀にはアイルランド系,20世紀初頭にはユダヤ系とネグロイド系,現在では中南米系が中核層を占めている.この民族交代は,アメリカにおける社会的弱者が自らの肉体を賭して階級を這い上がろうとした勢力図を示している.引退後の元王者が忘れ去られ,社会保障の網からもこぼれ落ちる構図は,アメリカ社会が抱える構造的格差の縮図と見なすべきである.本書が描くのは,「敗者」の物語ではない.むしろ,拳を振い続けることでしか自己を証明できなかった者たちがバンテージを解き,拳を下げた後に直面する存在証明の記録である.

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原題: マイノリティーの拳―世界チャンピオンの光と闇

著者: 林壮一

ISBN: 4101392617

© 2014 新潮社