▼『時間の分子生物学』粂和彦

時間の分子生物学 (講談社現代新書)

 ほぼすべての生物の遺伝子が,「24時間」のリズムを刻む謎.生物はなぜ眠るのか?この生命最大の謎にまだ完全な答えはありませんが,約24時間のリズムを刻む生物時計は,人間や高等動物だけではなく,昆虫,草木,単細胞生物にも備わっていて,ほとんど同じ遺伝子を使っていることがわかってきました.この生物時計はどういう仕組みで動き続けているのか.そこで「眠り」はどういう役割を果たしているのか――.

 ズム,リズム,リズム――冒頭のリフレインが象徴するように,生命現象の多くはリズムで成り立っている.心臓の鼓動,呼吸の間隔,ホルモンの分泌周期,そして睡眠と覚醒.こうしたリズムの中核にある生物時計(サーカディアンリズム)とは,時計の比喩ではない.それは遺伝子とタンパク質が織りなす,精密かつ柔軟なフィードバック機構である.かつては人間の体内時計は,外部刺激なしで25時間周期で動くとされたが,それは実験環境の光の管理が不完全だったことに起因する誤解だった.

 面白いのは,なぜ目覚まし時計が鳴る前に目が覚めるのかという章である.これは気合や偶然ではなく,脳内の「視交叉上核(SCN)」が朝の光や生活のリズムを通じて覚醒の準備信号をあらかじめ送っているためである.つまり,私たちの身体は意識するより先に,次に必要なことを準備している.睡眠の研究にショウジョウバエが使われる理由も一見奇妙に思えるが,ハエは哺乳類と遺伝子の構造が意外にも似ており,かつ行動パターンが読み取りやすいという利点がある.赤外線行動観察装置を使って「眠っているハエ」「動きを止めているだけのハエ」を見分ける試みは,生命現象の本質に迫る見事な方法論である.

 こうしたハエの睡眠行動研究から,人間の不眠症やナルコレプシーの理解にまでつながっていくという事実は,科学の射程の広さと創造性をまざまざと見せつける.オレキシンにまつわる研究は,近年の睡眠学で最大の発見とも言えるもので,覚醒を促す神経ペプチドであるオレキシンが欠損すると,ナルコレプシーが発症することが明らかとなったという.

 オレキシンが食欲にも関係しているという点はとりわけ興味を引くものだ.睡眠と摂食という一見無関係な欲求が,脳内で共通の機構により調整されているのである.徹夜明けに空腹になる一因でもあるというのは,日常と分子生物学がつながる好例であろう.本書は,分子生物学の成果を日常に橋渡しするだけでなく,読者に対して「あなたの中にある時計を感じてみませんか」と静かに問いかけてくる.その問いに耳を澄ませる,それこそが「時間生物学」の実践である.

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原題: 時間の分子生物学―時計と睡眠の遺伝子

著者: 粂和彦

ISBN: 4061496891

© 2003 講談社