■「スキャナー・ダークリー」リチャード・リンクレイター

スキャナー・ダークリー [Blu-ray]

 政府が腐敗した社会には物質Dという名のドラッグが蔓延.人民の生活――基本的人権,人間関係――はことごとく踏みにじられていた.キアヌ・リーブス演じる覆面麻薬捜査官は,このドラッグを根絶するため,ジャンキーの役を演じネットワークの奥深くに潜入していくが,やがて捜査官として,ジャンキーとしての自分を監視する事態に陥る.そして,彼の人格は徐々に,しかし確実に崩壊していく….

 ィリップ・K・ディック(Philip K. Dick)が自身の人生と向き合いながら執筆した私的な作品『暗闇のスキャナー』を原作とする映画.1970年以前の作品の多くをアンフェタミン服用下で執筆していたディックにとって,悔恨と鎮魂の書となった原作の成立には,ディックの生活環境が大きく影を落としている.妻と離別後,自宅はドラッグ・カルチャーに浸った若者たちのたまり場となり,その一部は過剰摂取や精神崩壊で帰らぬ人となった.ディックは彼らを見捨てたのではなく,見届けた.献辞で彼らの名前をひとりひとり挙げている――「この本は彼らに捧げる」と記され,17名の名が記された――そのような個人的な痛みを宿した物語を,本作はロトスコープという特異なアニメ技法で映像化した.

 実写の上にデジタルペイントを施すこの手法は,撮影後にフレーム単位で加工され,現実と幻想の境界を曖昧にする効果をもたらしている.当時スタイリッシュな演出ではあったが,新型ドラッグ「物質D(Substance D)」によって知覚が歪み,現実がぼやけていく使用者の視点を疑似体験させるための方法論である.潜入捜査官アークターが着用する「スクランブル・スーツ」の映像化により,視覚的に万人であり,同時に誰でもなくなる.この奇抜な発明は原作に忠実でありながら,映像としては極めて効果的に表現されている.人種,性別,階級といった属性が常時変化し続けるこのスーツは,現代社会におけるアイデンティティの消費をも象徴している.

 アークターはやがて,ジャンキーたちとの境界を失い,潜入先である薬物常用者集団の一員として同化していく.ミイラ取りがミイラになる,という古典的テーマがここでは冷笑的ではなく,深い哀感と共に語られる.スクランブル・スーツを脱ぎ捨てたとき,そこにあるのは解放ではなく,自己喪失の果ての空虚である.物語の背景には,政府の導入した全方位監視システム「ホロスキャナー」が存在し,監視社会の不条理と個人の孤立も浮き彫りになる.だが,皮肉なことに,監視者であるアークターは自らの正体を把握できない.「誰が誰を見張るのか」という問いは,やがて「自分は誰なのか」という存在論的懐疑にすり替わる.物質Dの副作用によって,脳の左右半球がそれぞれ異なる人格として分裂するという設定も,実際にディックが当時経験した幻覚や妄想を下敷きにしている.

 医師の診断によれば,その精神状態は自己認識不能な多重人格に限りなく近いものだったという.つまり本作のアークターとは,まぎれもなくディック自身の分身であり,彼の生涯における最終的な問いの受け皿でもあった.終盤,アークターが農場に送られ,薬物の原材料が栽培されていることを発見する場面は,陰謀論的構造を孕みながらも,救済の可能性をわずかに示唆する.しかし,決して楽観的な希望ではない.原作と同様,映画もこの微かな気配を保ったまま幕を閉じる.スクリーンに映るアークターのぼんやりとした佇まいは,薬物中毒者の更生ではなく,彼岸からこちら側へ送られたメッセージのように映る.

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原題: A SCANNER DARKLY

監督: リチャード・リンクレイター

100分/アメリカ/2006年

© 2006 Warner Independent Pictures.