▼『ワシントンハイツ』秋尾沙戸子

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後―(新潮文庫)

 終戦からほどなく,東京の真ん中に827戸を擁する米軍家族住宅エリアが出現した.その名も「ワシントンハイツ」.「日本の中のアメリカ」の華やかで近代的な生活は,焼け野原の日本人にアメリカ的豊かさへの憧れを強烈に植え付けた.現代日本の「原点」ともいうべき占領期を,日米双方の新資料と貴重な証言から洗いなおした傑作ノンフィクション――.

 領下の東京に築かれた米軍家族住宅地「ワシントンハイツ」を起点に,戦後日本の〈アメリカの残像〉を抉り出す試みである.92万平方メートル,827戸の住宅群,学校,教会,変電所,ガソリンスタンドまで完備したこの街は,いわば「日本の中のアメリカ」であり,明治神宮という神聖な空間に隣接していた.GHQの占領政策は軍事支配とともに,文化的浸潤でもあった.

 本書はその文化的植民地の最前線としてのワシントンハイツを通して,日本社会がいかにアメリカニズムを受け入れ,反発し,内面化していったかの過程を描いている.興味深いのは,銀座四丁目が「タイムズスクエア」に模され,晴海通りなどにアメリカ的ニックネームが与えられたという記述である.これは都市空間の記号的占領,すなわち視覚文化の支配である.アメリカによる占領が一時的な外圧ではなく,構造的な刷り込みであったことを,本書は示唆する.アメリカ的消費文化――電子レンジ,冷蔵庫,野球グラウンド,グラスやレモン搾り器に至るまで――が,敗戦後の日本人に未来と豊かさの幻影を与えた事実は無視できない.

 アメリカは,統治機構を温存させつつ,生活様式を通じて日本人の意識変革を促したのである.国民の多くがこの〈生活文化の侵蝕〉を快く迎えたこと,銀座,六本木,原宿が消費の聖地となったことは,その証である.忘れてはならないのは,旧帝国軍人たちの再雇用という事実である.戦争責任が曖昧にされたまま,日本は親米保守という新たな忠誠の枠組みの中に組み込まれた.

 年次改革要望書やアメリカ国債の購入という形で,アメリカは経済的にも日本に影響を及ぼし続ける.占領は軍事的に終わっても,従属構造は形を変えて現在に続いている.ワシントンハイツの解体と返還は1963年,東京オリンピックの前年である.表面的には主権回復であるが,それは風景の表象の置換にすぎなかった.国立代々木競技場という建築的モニュメントが,アメリカの町を覆い隠したにすぎず,土地の記憶は建築の下に静かに沈んだのである.現在も代々木公園内の一部に,米軍家族向けのプール跡や滑り台の痕跡が残っている.

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原題: ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

著者: 秋尾沙戸子

ISBN: 9784101359861

© 2011 新潮社