| エリートによる歴史記述に現れない庶民の実態をさぐる‥‥古典作家の著作,墓碑をはじめとする金石文,キリスト教関係の資料,パピルスなど多岐にわたる資料を駆使して,一般民衆,奴隷,解放奴隷など,歴史の表には現れない庶民の生活を描き出す――. |
後212年,カラカラ帝(Caracalla)によってすべての自由民にローマ市民権が与えられるまで――厳密な統計が残されているわけではないが――,ローマ市民は帝国全人口の10〜15%程度にすぎなかったと考えられている.大多数の人々は市民権の外に置かれた「非市民」だった.彼らは課税対象でありながらも,政治的権利や法的保護を十分に享受できない存在であった.アウグストゥス帝(Imperator Caesar Divi Filius Augustus)から大帝コンスタンティヌス(Gaius Flavius Valerius Constantinus)に至るまでの約300年,古代ローマ像の多くは,元老院議員や騎士階級,都市参事会員といった,0.5%にも満たないエリート層の記録に基づいて構築されてきた.歴史の記述は常に権力の側から行われてきた.
記述の陰には,娼婦,剣闘士,奴隷,解放奴隷,兵士,無法者,そして市井の庶民たちの息遣いが確かに存在していた.本書の試みは,そうした「見えざる者たち」の精神世界に光を当てるものである.従来の歴史書が顧みなかった,碑文,パピルス,寓話,夢判断書,占星術文書,呪術書,キリスト教の説教文などを素材に,庶民が何を信じ,どのように生き,死と向き合っていたかを丹念に掘り起こす.神話や英雄の物語ではなく,まさに庶民の日常そのものである.ある墓碑銘には,妻を亡くした男が「おまえはパンよりも甘く,光よりも明るかった」と記した言葉が刻まれている.ローマ史といえば軍事や政治が語られがちだが,このような素朴な愛の表現こそ,忘れられたローマの真実を示す断片なのである.
あらゆる偉業の背後には,そうした偉業を生み出した世界を下支えした幾百万もの人々が,庶民の男女,奴隷と解放奴隷,大金持ちと底なしの貧乏人,さらには一般兵士,娼婦,剣闘士,無法者までが,存在していたのである.彼らも,彼ら自身の目線に立ってその生き方を明らかにするに値するし,その第一歩を踏み出すことに本書が成功していることを願っている
かつて,事実の尊重と解釈を巡る対立,そこに歴史の本質という広汎な問題の隘路があるとE.H.カー(Edward Hallett Carr)は述べた.歴史は常に編纂者の意図をはらんでいる.記述の対象とならなかった99.5%の庶民の声をいかに拾い上げるか.それは補助的作業ではなく,歴史叙述の根本的な転換を意味する.本書が導き出す一応の結論は,古代ローマの庶民もまた事柄に対処し,人間関係と超自然的なものに慰めと報酬を求め,自らの居場所を切り開こうとした点において,現代人と本質的に変わらないというものである.これは一般化であり,歴史的特殊性を危うくしかねない危険も孕んでいる.
時代を越えて共通する人間的営為に着目することは,記録されなかった歴史への一つの接近方法でもある.興味深いことに,アウグストゥスの時代には,剣闘士の死亡率が高まりすぎたため,死なない剣闘士が人気を博したという逸話がある.観客が求めたのは死ではなく,死と隣り合わせの劇だった.つまり,ローマ人の感性は今日の我々が想像するほど粗野で血に飢えたものではなかった可能性もある.そうした細部の積み重ねが,庶民の実像に近づく手がかりとなる.ローマの通俗的イメージ――豪奢な浴場,剣闘士,皇帝の狂気――の背後にある,労働し,祈り,愛し,苦しんだ庶民たちの物語を再構築する作業は,21世紀に生きる我々の歴史理解を刷新する.
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Title: INVISIBLE ROMANS
Author: Robert C Knapp
ISBN: 9784560084274
© 2015 白水社
