■「東ベルリンから来た女」クリスティアン・ペツォールト

東ベルリンから来た女 [DVD]

 ベルリンの壁崩壊の9年前――1980年夏,旧東ドイツ.西ドイツへの移住を撥ねつけられ,田舎町の病院に左遷された,ひとりの女医師.監視が付き,自由を奪われた生活.そんな彼女の唯一の心の支えが,医師としての信念だった.西ドイツへの逃亡(自由)か,医師としての誇り(使命)か,彼女が下した魂の決断とは….

 東ドイツの重苦しい空気を精緻に映し出しながら,抑圧の中にあって「人間」の尊厳を問いかける.国家保安省(シュタージ)による厳重な監視体制下,思想と言論の自由が抑圧されていた時代の現実を背景としている.外貨の象徴である外国煙草,艶のある赤いヒール,抑制の利いた物言い――どれもが西側への憧れと,現実との摩擦を象徴している.物語の核心は,自由の獲得と人間関係の維持という,二律背反の間で揺れる内面的葛藤にある.

 女医バルバラの選択には声高な主張もドラマティックな告白もない.バルバラが看取る少女の命,それを共に支える同僚医師との仄かな交流は,「国家に忠実であれ」という時代精神の中にあって,なお人間としての感情や倫理観が完全には死んでいなかったことを示す.シュタージといえば,盗聴・密告・内偵といった手段で国民同士を疑心暗鬼に陥らせた組織であり,その監視社会のありようは,後に「善き人のためのソナタ」(2006)でも描かれたように,ドイツ人の集団的記憶として消えることはなかった.

 ドイツではベルリンの壁崩壊後,シュタージの膨大な記録が公開され,自分が誰に密告されていたのかを知る人々の心に,二重の傷跡を残した.クリスティアン・ペツォールト(Christian Petzold)は,本作の後に「あの日のように抱きしめて」(2014),「未来を乗り換えた男」(2018)を撮っている.いずれも失われたアイデンティティと記憶,抑圧の中での人間性回復がモチーフとなっており,東独という国家体制の物語は,広義には20世紀全体の喪失の歴史を指し示しているとも言えるだろうか.

 本作の撮影は,旧東ドイツ地域で行われ,当時の建物や風景をほぼそのまま利用している.ひなびた田舎町,簡素な医療施設,広がる野原や森,どこか沈鬱な海辺――それらの景色は,人物の内面に呼応する情景として機能している.バルバラが最終的に下す選択,それは政治的イデオロギーからの逃亡ではなく,人間でありたいと願う場所で誰かのために生きることを選んだという点において,倫理的重みを持つ.その意味で,彼女の決断は英雄的というより,静かでささやかな反抗である.その反抗こそが,シュタージによる管理社会が最も恐れた人間の自由意思だった.

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原題: BARBARA

監督: クリスティアン・ペツォールト

105分/ドイツ/2012年

© 2012 Schramm Film Koerner & Weber