| 施設で兄弟のように育ったケンタとジュン.電動ブレーカーで壁を壊す仕事をしながら,夢を語ることもなく先輩のイジメに耐える日々.二人はある日,すべてをぶっ壊して“ここ”から抜け出す決断をした.盗んだ車にカヨちゃんを乗せて,北を目指して出発する.そこには最後の希望があるはずだった…. |
アメリカン・ニューシネマを確信犯的に希釈し,絶望と閉塞という古典的テーマに現代性を付与しようとした意図は明らかである.だが,それは方法論として破綻している.登場人物たちの怒りや鬱屈を,丁寧に遡った生い立ちで説明してしまう時点で,本来内面の苛立ちとして提示すべき不条理が,社会的因果関係に還元される.彼らが「ぶっ壊して抜け出すんだよ」と叫ぶたび,台本に用意された反抗として聞こえてしまうのは,過去が断片的でなく詳細に語られてしまった演出の失策である.
プロットやシークエンスは,1960〜70年代アメリカン・ニューシネマ──「真夜中のカーボーイ」(1969),「ファイブ・イージー・ピーセス」(1970)など――の構造をなぞるにすぎない.だがこれらの作品群に通底するのは,政治的抑圧と同調圧力の中での「敗者の詩」であり,それを映し出すには,主題の重さと同等の社会的背景が不可欠だった.本作は,そこを現代風に薄めることに終始し,カウンターカルチャーに不可欠な社会批判の鋭さを持たない.つまり,オマージュというよりも,温度のない模倣にとどまる.
凡庸な枠組の中にあって,安藤サクラ演じるカヨちゃんという存在が異質な輝きを放っている.「ブス」「バカ」「ワキガ」という,三重苦の属性が個性を形成しながらも,ケンタとジュンのそばを離れず,愚行に寄り添い続ける.その関係は,精神的な依存や従属といった弱さで語られるべきものではない.あらゆる抑圧や嘲笑に晒されながらも,唯一の倫理的支柱となっている.ラストシーンのアップ,どこまでも不恰好でありながら,逆光の中で彼女の表情だけが穏やかに浮かび上がるその瞬間,「美」という価値基準を逆転させられる錯覚を覚える.
この映画が記憶に残るとすれば,それはロードムービーとしての形式美,ニューシネマへの意欲的接近のせいではなく,神々しさの予兆を備えた不完全な女の存在感に負うところが大きい.美人には程遠く,ブスでバカであっても「見捨てない者」のアルカイックな微笑である.ケンタとジュンが壊そうとしていたのは,社会の構造ではなく,自分自身の限界であった.だが彼らが最後まで壊せなかったのは,カヨという名の他者を前にして立ちすくむ自己の不確かさだった.
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原題: ケンタとジュンとカヨちゃんの国
監督: 大森立嗣
131分/日本/2010年
© 2010 「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」製作委員会
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