▼『働きすぎに斃れて』熊沢誠

働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史

 死にいたるまで働く人びと,それはまるであなた自身の姿ではないか.ふつうの労働者が「しがらみ」に絡めとられながら限界まで働くことによって支えられてきた日本社会.そのいびつな構造が生み出した膨大な数の過労死・過労自殺の事例を凝視し,日本の労働史を描き出す.現状を変えていくための,鎮魂の物語――.

 度経済成長時代,過労を度外視する「アニマル」と呼ばれた日本では,それを侮辱というより賛辞と受け止める層もあった.1988年に弁護士グループによる相談窓口「過労死110番」が大阪に開設されたが,初めて企業に損害賠償を求める訴訟が起こされたのは3年後の1991年だった.過労死・過労自殺が社会的に認知されるプロセスは,労災認定基準のありように左右される.労働者の死因が業務理由であるかが争われる性質上,遺族の労災補償申請の大多数は,旧労働省の厳しい認定基準によって却下される事案が多かった.1989年労働戦線統一時の組合文書には,「過労死」という用語すら存在しなかったのである.

 本書がもっとも重視するのは,法的な立論や医学的な見地の判断そのものではなく,裁判資料(判例)が記す労働者の経歴,労働の内容,死に至った経緯.それらは,判決を迎えるに際して「争いのない事実」「認定された事実」として,故人となった一人ひとりの労働者の生きた証であり「物語」というほかはない.サブタイトルにあるような,過労死・過労自殺の検討がすなわち日本の労働史を反射的に意味するわけではない.しかし,この問題から目を背けず真摯に向き合うならば,この国の労働の「看過できない特徴」を捕捉することができる.80年代以降の発生件数を見れば,過労死と過労自殺が災害・作業環境・職場環境の改善・安全人間工学の視点による組織行動学の範疇にあることは論を俟たず,日本固有ではないにせよ労働社会の宿痾となって「平凡な労働者」を苦しめ続けている.

現代の労働が言葉の厳密な意味において奴隷労働でない限り,過労死であれ過労自殺であれ,それらは働きすぎを要請する企業の論理に対する,労働者のいくばくかは自発的な対応の結果として現れるのだ.過労死・過労自殺は総じて,この「階級なき」日本の労働者になじみの「強制された自発性」から生まれる悲劇の極北なのである

 理解を促すのは,なによりも「働きすぎ」により「死を選択させられた人々」の労働環境,職場・労働への過剰適応が招いた死のプロセス,遺族の悲しみや怒りの訴えを認めようともしない企業法務の不寛容と強かさ――これらの実態に他ならない.本書はすぐれたケーススタディ紹介と分析に注力し,工場・建設労働者,ホワイトカラー,教師,管理職,現場リーダーなど50例に及ぶ群像――過労によって"死"をもたらされた人々――をまざまざと描き出す.当然,性別や年齢の違い,エリート層,ノンエリート層,一般職,専門職,技術職,エッセンシャルワーカー,感情労働者など彼らの職業歴は多種多様である.しかし,それら労働の個別性を帰納的に相対化させていくと,彼らが「強制された自発性」「過剰適応と自己責任」にさらされ続けた負荷の結果,死に至った共通項が浮き彫りになる.

形成されるべき労働者像とはおそらく,価値基準としては,自分にとってかけがえのないなにかに執着する「個人主義」を護持しながら,生活を守る方途としては,競争の中の個人的成果よりは社会保障の充実や労働運動の強化を重視する「集団主義」による――そうした生きざまの人間像であろう

 過度の負担を引き受けることも「自発的」労働と見なし解釈する冷酷な経営姿勢について,著者は「労働条件の個人処遇化」と規定する.それが規範化され職場風土に日常化,恒常化したパワハラや責任回避とその放置など,経営側が怠慢かつ狡猾であったそしりは免れ得ない一方,大多数の人々が働く「ありふれた職場」にこそ労災申請は埋もれている.産業社会の構造的なひずみにより,個人の受難は必然化される.畢竟,労働者の分断統治が働きすぎの臨界の最悪形態を放置し続け,本来それに歯止めをかけるべき労働組合の弱体化が間接的な影響をもっていることになる.事実,本書で紹介される多数事例では,ほとんどの犠牲者が労働組合に非加入あるいは組合の介入は見られないのである.

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原題: 働きすぎに斃れて―過労死・過労自殺の語る労働史

著者: 熊沢誠

ISBN: 978-4-00-024456-5

© 2010 岩波書店