■「終着駅 トルストイ最後の旅」マイケル・ホフマン

終着駅 トルストイ最後の旅 [DVD]

 「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を世に生み出した,ロシアの大文豪トルストイ.始まりは,彼の残した遺言にあった.トルストイの作品に関する権利を家族ではなくロシア国民に与えるというその内容は,妻ソフィヤとの関係を思いがけぬ方向に導いてゆく――"世界三大悪妻"と名高いソフィヤ.しかしすべては女としてトルストイを愛し,母として家族を守るための行動だった….

 徳と禁欲を説いた大文豪レフ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой)が,家庭では妻ソフィア(Sofja Andrejewna Tolstaja)との長年の確執に苛まれていたという事実は,文学史における皮肉の一つである.悪妻と断じられがちなソフィアは,常識と家庭経済を守る側のリアリストであり,印税を家庭の資産として保持すべく尽力し,トルストイは,私有財産そのものを否定する倫理へと向かっていた.衝突は不可避であり,後年には夫婦間で日記を盗み読むような不信の応酬まであったとされる.

 ソフィアとの出会いは劇的であり,トルストイが34歳,彼女がわずか18歳の時であった.しかもその3週間後には結婚を決意.結婚初夜には,トルストイは自らの過去の放蕩を赤裸々に綴った日記を彼女に読ませるという激烈な自己開示を行った.ソフィアは13人もの子どもを産み育て,夫の創作活動を献身的に支えた.『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』はそのような家庭生活の中で生み出されたのである.トルストイの40代には,愛息の死があり,それを機に魂の方向転換が起きた.教会制度に背を向け,独自のキリスト教解釈に基づく「トルストイ主義」を掲げ,著作権を放棄,肉を絶ち,農民とともに労働し,非暴力と博愛を説いた.

 インドの非暴力抵抗運動には,トルストイからの手紙が精神的支柱となっていた.日本でも白樺派の志賀直哉や武者小路実篤らが「新しき村」運動を展開し,農地改革や平和思想の根源にトルストイの影が落ちる.その理想は,家族という現実の営みによって常に試された.遺産をロシア国民に譲渡させようとする高弟ウラジーミル・チェルトコフ(Vladimir Chertkov)との関係は,ソフィアにとっては不信と侮蔑の対象であり,家庭を引き裂く要因となった.トルストイにとって,信仰と実践,理想と生活,家族愛と人類愛の間にある断絶こそが,真の苦悩だった.

 決して愛情が消えたわけではなかった.だが1910年10月28日,トルストイはついに妻との軋轢からの逃避を決行し,出奔.ウラル鉄道の小駅アスターポヴォで肺炎を患い,そのまま客死する.享年82.トルストイ夫妻は,クリストファー・プラマー(Arthur Christopher Orme Plummer)とヘレン・ミレン(Dame Helen Mirren)という老熟の2人が味わい深く演じている.トルストイの瞳に宿る「誰にも救われぬ者の慈悲」とも呼ぶべき光は,伝記を超えた魂の記録である.愛と理想の間で引き裂かれた巨人が最期に選んだのは,言葉で説明し尽くせぬ沈黙の境地だった.トルストイが死の瞬間,有終の美を感得したかどうかは誰にも分からない.

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原題: THE LAST STATION

監督: マイケル・ホフマン

112分/ドイツ=ロシア/2009年

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