| 「外国の音楽をやるためには,その音楽の生まれた土地,そこに住んでいる人間をじかに知りたい」という著者が,スクーターでヨーロッパ一人旅に向かったのは24歳の時だった‥‥ブザンソン国際指揮者コンクール入賞から,カラヤン,バーンスタインに認められてニューヨーク・フィル副指揮者に就任するまでを,ユーモアたっぷりに語った「世界のオザワ」の自伝的エッセイ――. |
小澤征爾の若き日を綴った自伝的エッセイは,「世界のオザワ」が誕生する過程を証言する青春記録.敗戦国日本の青年が欧米の音楽世界に斬り込む,痛快な突破劇でもある.桐朋学園で斎藤秀雄に師事した小澤は,いわゆる"斎藤メソッド"として知られる独特の指揮法を叩き込まれた.指揮棒に頼らず,体全体を用いて音楽のあらゆる要素を伝えるという斬新なメソッドで,指揮者の体技を分類・体系化した斎藤の理論は,日本における音楽教育の革新をもたらした.小澤の指揮の曲線的な腕の動きや空を叩くようなアクションは,このメソッドの結晶である.
1959年,1ドル=360円の時代.飛行機の直行便などないなか,貨物船にスクーターとともに乗り込んでフランスのマルセイユに降り立った23歳の青年の姿は,むしろ放浪詩人のそれである.スクーターは日本製品の宣伝という建前だったが,その実,音楽を通じて世界に挑む旅のための相棒であった.語学力に乏しく,音楽学校に入学することすら叶わぬ状況で,小澤が狙いを定めたのが,フランスのブザンソン国際指揮者コンクール.理由は明快で,優勝すれば,誰よりも早く,誰よりも濃密に,本場の指揮者から直接の薫陶を受けられるからである.合理的な戦略は功を奏し,48人のライバルを退けて見事に優勝を果たす.言語的制約を指揮という非言語的コミュニケーションで補い切ったことには驚かされる.
ヨーロッパではこれほどまでに有名なコンクール(ブザンソン国際指揮者コンクールのこと)なのに,日本ではまったく知られていない.会場に外国の記者はいっぱいいたが,日本の記者は一人もいない…中略…日本のような小国は今後音楽や美術で外国に対抗しなければならないはずなのに
楽譜と身振り,表情と拍子の間に宿る「音楽の母語」を武器に,世界へ一歩踏み出したのである.のちに師弟関係を築くレナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)との出会いもこの流れの中で実現する.1961年,凱旋帰国したのはまだ26歳.自伝に収められた記録の多くは,渡欧からたった2年余りの間のエピソードである.文章表現こそ技巧的ではないが,むしろそれが臨場感を高めている.若者の息遣いと怒り,喜び,興奮が生々しく伝わってくる.芸術家の待遇や制度的な不備に対する率直な憤りには,計算されていない生のエモーションが宿る.外国の音楽をやるには,その音楽が生まれた土地に触れなければならないという信念のもとに,一人スクーターでヨーロッパを横断したエピソードは,指揮者という役割の本質に迫る行動哲学とすら言えるだろうか.
ここ(タングルウッド)とクーセヴィツキーとはあらゆる意味で離す事が出来ず,音楽に関係あるものでは,クーセヴィツキー賞があり,クーセヴィツキーの教会まである.日本で言えば東郷神社とか野木神社とかいうものではないか.しかし日本には芸術家の名を冠した神社どころか,パリのように街路さえもない.芸術家を遇する事のいかに貧しいことか
当時小澤が住んでいたパリの下宿は,階段の上り下りも音を立てないように指導されたという.音楽にすべてを捧げる精神が,日常の隅々にまで浸透していたことを物語る.あるいは,バーンスタインとの出会いの際に,自作の「簡易フランス語指揮マニュアル」で必死に意思疎通を図ったという裏話もある.華やかな成果の陰にある涙ぐましい努力は,この人物の本質を雄弁に物語る.天賦の才が突き動かした成功譚というより,周到な戦略,鍛え上げられた身体性,情熱が三位一体となって成し遂げられた「プロジェクト小澤」の初期記録である.
++++++++++++++++++++++++++++++
原題: ボクの音楽武者修行
著者: 小澤征爾
ISBN: 4101228019
© 1980 新潮社
