■「数に溺れて」ピーター・グリーナウェイ

数に溺れて 4Kリマスター [Blu-ray]

 ある冬の夜,シシー[1]は夫の浮気現場に遭遇.彼女は泥酔した夫をバスタブに沈め,溺死させてしまう.友人の検視官マジェットの協力で,事件は事故死として処理された.が,今度は娘のシシー[2]が味気ない結婚生活に見切りをつけ,大荒れの海で夫を溺れさせる.「1人ならまだしも2人はありえない」とマジェットは忠告するが,条件が揃えば容赦なく最後の一手を刺されるのがゲームの掟.3人目はシシー[1]の孫で,シシー[2]の姪である若き水泳選手シシー[3]の夫.相次ぐ不審死に疑惑を抱いた彼は,カナヅチであるにもかかわらず妻とプールに入ってしまい….

 ニカルなブラック・コメディの体裁をとりながら,美術・音楽・数学・演劇的構成原理を統合した知的実験であり,視覚的にも概念的にも構築された"迷宮"である.物語の骨子は単純で,三世代の同名の女性"シシー・コルピッツ"が,それぞれの夫を溺死させるという繰返しによって成り立つ.この反復性こそが,一種の形式美となり,死の等価性に関する美学的・哲学的考察へと変貌を遂げる.本作における最も有名な仕掛けは,1から100までの数字が無秩序に映像のどこかに登場する形式的遊戯である.衣服に縫い込まれていたり,家屋の表札であったり,何気ない会話の中に紛れ込んでいたりと,注意力と観察力を要求する数的構造は,バロック建築の対称性に倣ったものだとも解釈される.

 ピーター・グリーナウェイ(Peter Greenaway)は装置を「視覚的な時間の計測器」と称し,映画が物語によって駆動されるものではなく,構造によって統御されうるという美学を体現させた.グリーナウェイが好んで引用する音楽家マイケル・ナイマン(Michael Nyman)の反復主義的スコアも,視覚と聴覚において同一の反復美を形成している.音楽が鳴り響く中で行われる死の儀式は,喪失の悲劇ではなく,むしろ一種の舞踏のように構成されており,グリーナウェイ特有の死生観が宿る.グリーナウェイの作品にはしばしば,「生の無意味さ」「秩序の欺瞞性」という主題が漂う.検死官マディンガリーは,事件の真相を知りながら,自己の享楽である「ルールとゲームの創造」に重きを置く.

 発明する数々の無意味な遊戯――死者の口から最も遠くにリンゴを転がした者が勝ちなど――は,ベケット的不条理の再演であり,グリーナウェイがロジックの空虚さを逆説的に炙り出す装置となっている.3人のシシーたちが連帯して殺人を犯しながらも,映画においてまったく糾弾されず,むしろ淡々と日常を送るという倫理的逆説は,フェミニズム的読解とも接続しうる.男たちを水に沈める比喩は,父権社会における男権を「浄化=死」によって終焉させる行為と読める.グリーナウェイはこの逆説を明示的に語らないが,寓意性はより深くなる.水は浄化と死を兼ね備える中世以来のアレゴリーであり,それを淡々と用いる演出には,中世寓意画への彼の造詣が確実に反映されている.グリーナウェイがこの作品の着想を得たのは,ある児童詩集の中の一編で,"Three Cissies Drown Their Men"という行があったことがきっかけとされる.

 撮影はイースト・アングリア地方の風景画的な田園地帯で行われ,光の扱いには17世紀オランダ絵画――フェルメールやレンブラントの静謐な陰影構成――を意識したと語っている.構図の厳密さはキャンバス上の視覚設計であり,映画を絵画の延長線上で捉える.上映当時は,従来のナラティブ映画に慣れた観客からは難解すぎると評されたが,批評家の間ではむしろその数的・図像的ミニマリズムが評価された.ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)が映画を「読むな,数えろ」と評した逸話も,グリーナウェイの実験精神に対する批評的レスポンスの象徴として残っている――ただしこの発言の真偽は確認されていないが,ゴダールと映画史との関連でよく語られる――いずれにせよ,死と遊戯,秩序と破綻,フェミニズムと数学,構図と反構成主義といったテーマを,完璧なバランスで等価に扱う実験的な作品である.

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原題: DROWNING BY NUMBERS

監督: ピーター・グリーナウェイ

118分/イギリス/1988年

© 1988 Allarts / Drowning by Numbers BV