
| 異端審問という言葉ほど,恐怖に満ちた語はない.ヨーロッパおよび新大陸における宗教裁判はいまだ我々に恐怖心を起こさせる.本書は,その実体,その成立と消滅の過程,裁判の実際,各国での状況などを12世紀から第二ヴァチカン公会議まで,逸話を交えて紹介する.特にスペイン,南米での記述に詳しい――. |
異端の概念は,キリスト教成立初期から教義の純粋性をめぐる問いとして現れていた.1世紀の教会法文献『ディダケー』にすでに異端に関する記述があるが,異端を正式に問責・処断する制度が確立されたのは12世紀後半,教会の組織化と中央集権化が進んだ時代である.1163年のリヨン公会議におけるマニ教徒迫害決定が,いわゆる制度的異端審問の端緒とされている点は興味深い.マニ教は東方由来の二元論的宗教であり,異教と異端の境界が曖昧であったことも,この弾圧の背景にある.異端審問は精神的強制と肉体的制裁の両面を持っていた.ドミニコ会,フランチェスコ会の修道士たちが審問官として採用されたのは,彼らが神学的知識と説教能力を兼ね備えていたからである.だがその説教は,教化ではなく「魂の救済」を名目とした制度的暴力の一部であった.
異端審問制(宗教裁判所)というものが,スペインで栄える前から,ヨーロッパのいたる所で発達した大規模な歴史的現象であることはご存じであろうか.『聖庁』の過酷さは広く認められており,たしかにそうした面は否定できないのだが,それでもときには聖庁が,当時としてはもっとも客観的な組織だったということは知られているであろうか
異端審問官ベルナール・ギー(Bernard Gui)が著した『異端審問の実務』は,審問の手順,拷問の段階,証言の取り扱い,裁定の基準などを網羅する実務マニュアルであり,その内容は技術書のように冷静かつ詳細である.本書第3章「宗教裁判のやり方」では,裁判の過程に焦点が当てられている.まず密告に基づいて起訴がなされ,被告はしばしば匿名の証言に基づいて審問される.自白が得られない場合は,拷問が選択肢となる.拷問台,吊るし落とし,水責めなどの方法は,身体的苦痛だけでなく,象徴的屈辱も伴った.処罰の軽重は,異端の再犯性や固執度,そして悔悛の意思表示の有無に左右された.最も重い刑は火刑,すなわち焚刑であり,セルモ・ゲネラリス(判決の宣告)と呼ばれる宣告式によって公然と執行された.こうした制度はスペインにおいてとりわけ苛烈化する.
1492年,カトリック両王の時代,異端審問官総長として君臨したのがトマス・デ・トルケマダ(Toms de Torquemada)である.18年間で10万件以上の審理を行い,約8000人を火刑に処したとされるトルケマダは,国家と宗教の一体化を象徴する.異端審問は,ユダヤ教徒,イスラム教徒,改宗者への監視と弾圧を強化する手段となった.スペインにおける異端審問の特徴は,信仰だけでなく出自,民族的アイデンティティをも問うた点にある.異端者には贖罪の証として,黄色いフェルト製の十字架を胸と背に縫い付けられた衣装を着せられた.これは"汚辱のしるし"であり,終生その烙印を負わされる象徴であった.鞭打ち,拷問,水責めなどの肉体刑と並び,公共の場での羞恥もまた罰の一部である.人を異端だと謗ったものには,赤い舌のかたちをした布,聖体の秘蹟をけがしたものには,聖餅(ホスチア)の布がつけられ,恐怖の連鎖が共同体全体を統制した.
教会は,証拠物件よりも自白のほうを好み,このほうが上だと考えた.被告がもし頑強に否認しつづけるなら,審問官たちはさまざまな強制手段を用いることができた.未決拘留などもそのひとつである.制裁にはいくつかの段階があり,裁判官は適当と思われる様式を選ぶことができた.被告は鎖につながれることもあった.長期の断食を課されることもあり,睡眠を奪われることもある.このような懲治の措置はときに数年間もつづき,いくつかの監獄は――たとえばカルカソンヌの独房のごとき――その厳しさゆえに悪名高いものがあった
中傷による無実の被告も少なくなく,偽証と密告の構造が社会を蝕んだ.本書が強調するのは,異端審問が恣意的な弾圧ではなかったという点である.教皇庁の布告,公会議の文書,ライムンド・デ・ペニャフォルト(Ramon de Penyafort )による教令集などに基づく厳格な法的枠組みが存在していたことを,著者らは丁寧に示している.判例主義的な思考や,異端者を「回心」へと導こうとする姿勢も,ある意味では中世的合理性の表れである.「苦痛は理解のもとであり,心を開かせる」と述べているが,それは神の正義を地上で体現する確信から生まれた発言であろう.本書は,異端審問という非合理に思える制度の背後にある合理性,すなわち中世カトリシズムの自己防衛的秩序の論理を明らかにする.焚刑の際に用いられた薪はオリーブの木が好まれたともいわれている.理由は香りと燃焼時間によるものだが,その選択にすら浄化の象徴性が込められていた.こうした細部に至るまで,異端審問は制度化された信仰の暴走であった.
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Title: L’INQUISITION
Author: Guy Testas, Jean Testas
ISBN: 4560055467
© 1974 白水社
