▼『ピアニストは語る』ヴァレリー・アファナシエフ

ピアニストは語る (講談社現代新書 2389)

 世界的ピアニストが初めて語る人生と音楽.現代新書のためのオリジナル企画.クラシック音楽の「鬼才」として熱狂的なファンを持つヴァレリー・アファナシエフ.本書は,昨年,二〇一五年の来日の折に,東京目白の松尾芭蕉ゆかりの日本庭園,蕉雨園で収録された,世界的ピアニストが初めてこれまでの人生と芸術を振り返った貴重な証言の書籍化です――.

 ヴィエト体制下での音楽家の精神的格闘,亡命という実存的決断,音楽に殉ずる孤独と哲学.ヴァレリー・アファナシエフ(Вале́рий Па́влович Афана́сьев)は,1947年モスクワに生まれ,スターリン主義の影が色濃く残る社会にあって,自由な芸術表現は厳しく制限されていた.モスクワ音楽院ではヤコブ・ザーク(Я́ков Изра́илевич Зак),伝説的名演奏家エミール・ギレリス(Эми́ль Григо́рьевич Ги́лельс)に学んだが,同時に制度の不自由さにも直面している.

 国家から与えられる演奏の機会と報酬,それがソ連型音楽教育の実態であり,才能ある者ほど体制の道具にされる危険と隣り合わせだった.1974年,アファナシエフは突如ベルギーに亡命する.決断の背景には,音楽家としての誠実さと,文学者としての表現欲求の両立不可能性があった.驚くべきことに,アファナシエフはその亡命直前まで,母国でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)のソナタを録音し,当局から国家功労者と称えられていた.

 かつてアファナシエフは「音楽とは自由の別名である」と語ったが,本書を読むと,その言葉が修辞ではないことが解る.ピアノを「鍵盤の上の即興詩」と呼び,精神の即時的結晶として捉える.同時代の演奏家たちとは異なる視座であり,アファナシエフの演奏がしばしば「詩的すぎる」「テンポが独特すぎる」と賛否を呼ぶ理由でもあろうか.録音したベートーヴェン《月光》は,一般的な演奏時間の約1.5倍を要するが,静まり返った室内で聴くべき名演奏である.

 本書の収録地となった東京・目白の蕉雨園は,俳人松尾芭蕉にゆかりを持つ庭園である.静寂と幽玄の美は,アファナシエフの内省的な語りと見事に呼応する.アファナシエフは演奏会中,観客の咳払いに憤慨し「そのノイズはベートーヴェンの音楽を殺している」と途中退席したことがある.彼にとって音楽とは神聖であり,神経質にすら思える完璧主義は,芸術に対する倫理的態度である.本書全体を貫く静謐の美学――それは演奏会場での沈黙に似た緊張感を帯び,読者にもまた,耳ではなく"沈黙のなかの声"を聴くことを要求している.

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Title: ピアニストは語る

Author: Valéry Afanassiev

ISBN: 9784062883894

© 2016 講談社