▼『スパルタ』長谷川岳男

スパルタ 古代ギリシアの神話と実像 (文春新書 1469)

 元祖“スパルタ教育”の実態に迫る.格差を感じさせない,理想的な体制だった!?マキャベリが「最も優れた国制」,ルソーが「安定した社会」だと絶賛.プラトンが高評価し,ナチスが賛美.スパルタは,1000におよぶポリスが乱立する古代ギリシアにおいて軍事大国として君臨し,アテナイ(アテネ)と覇権を争っていた.なぜ長期間にわたって強国を維持することができたのか.賛美者が絶えない「理想の社会」の実像とは――.

 代ギリシア世界においてスパルタは,徹底した規律教育の実験場であった.日本で「スパルタ教育」という語が戦前から用いられるようになった背景には,冷徹かつ妥協を許さぬ戦士という神話化されたイメージがある.しかし近年の研究は,スパルタ像が後世の政治的意図や美化によって硬直化した幻影であることを明らかにしつつある.この修正史観は,米中対立論でしばしば引用される「トゥキュディデスの罠」のように,古代事例を現代の安全保障論へ転用する傾向と相似している.

 テルモピュライの戦いは300人のスパルタ兵の死闘として記憶されるが,実際にはテスピアイやテーバイの兵士も参戦しており,純然たるスパルタ単独戦ではなかった.戦場から生還したスパルタ兵は「震える者(トレモル)」と呼ばれ,社会的軽蔑の対象とされた.現代の軍事心理学がいう戦闘ストレス反応は,古代においては共同体的名誉の剥奪によって抑制されていたのである.スパルタ教育(アゴゲ)は,パイデス(少年)からヘボンテス(青年)まで段階的に進む全寮制の軍事・生活訓練であり,国家が子の生殺与奪権を握るという徹底ぶりを特徴とした.出生直後の子を適否判定する制度は,近代優生思想の嚆矢として論争を呼んでいる.

 食事は意図的に粗末で,盗みは黙認されるが,失敗すれば容赦なく鞭打たれた.この逆説的方針は,資源不足下での創意工夫を促す仕組みでもあった.リュクルゴスの改革によって成立したエウノミア(秩序ある統治)は,二王制,長老会,民会,エフォロス(監督官)による権力分立を備えた特異な政治構造をもっていた.経済活動は意図的に抑制され,鉄製貨幣や贅沢禁止が格差拡大を防いだとされる.しかし実際には富の集中と市民数の減少が進行し,やがてホモイオイ(平等市民)はごく少数となる.この人口減少は,レウクトラの戦いでの壊滅的敗北を招く遠因となった.

 衰退期のスパルタは,マケドニア台頭やアカイア連邦との抗争の中で王権強化と国制改革を繰り返したが,最終的にスパルタはローマの属州に組み込まれ,教育制度も生活習慣も消滅する.しかし皮肉にも,政治的実体を失った後も「スパルタ精神」は為政者に利用され続けた.ある種のブランド化の過程は,古代ローマの称賛からルネサンス期の国制論,ナチスの軍国美化,冷戦期アメリカの軍事戦略に至るまで継続し,今日に至るまで,幻影としてのスパルタ像は払拭されていない.映画,ゲーム,スポーツマーケティング分野で「スパルタ式」は超人的規律と闘志の代名詞であり,米海兵隊や特殊部隊の推薦図書リストにもスパルタ史が含まれている.古代の規律教育の構造は,現代の兵士訓練にも応用され続けているのである.

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原題: スパルタ―古代ギリシアの神話と実像

著者: 長谷川岳男

ISBN: 416661469X

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