| 官吏任用試験に失敗した趙行徳は,開封の町で,全裸の西夏の女が売りに出されているのを救ってやった.その時彼女は趙に一枚の小さな布切れを与えたが,そこに記された異様な形の文字は彼の運命を変えることになる‥‥西夏との戦いによって敦煌が滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が,二十世紀になってはじめて陽の目を見たという史実をもとに描く壮大な歴史ロマン――. |
敦煌郡は紀元前2世紀,漢の武帝が匈奴に対抗するため甘粛省北西部に設置した都市であった.中国北西隅の要衝として中央アジアに通じる西域交通路を支配し,軍事・交易の両面で繁栄を享受した.この地は辺境都市ではなく,唐代にはシルクロード東端の文化集積地として仏教・マニ教・景教が共存し,壁画や文書の蓄積が極限まで進んだ.1900年,道士・王円籙が莫高窟の一小窟(後の第17窟)から発見した10世紀以前の古文書や画巻は4~5万点に達し,唐代戸籍や仏典,さらには漢字・西夏文字・ソグド語・ウイグル語の混交文書まで含まれていた.
古文書類はイギリスのオーレル・スタイン(Marc Aurel Stein),フランスのポール・ペリオ(Paul Pelliot),日本の大谷探検隊らの手で世界各地に分散し,のち「敦煌学」と総称される学問領域を生み,中国社会経済史や古文書学,比較宗教史を飛躍的に発展させた.なおペリオは,莫高窟にてわずか3週間で数千点の文書をラテン文字転写し,帰国後に中国語より先に仏訳版を世に問うという驚異的な記録を残している.本書は,この史実を下敷きにした歴史ロマンである.宋代,科挙に失敗した趙行徳が,西夏の女奴隷を救ったことから西夏文字が記された布切れを得る.
異様な形の文字に魅せられ西域へ向かった趙は,運命の奔流に呑み込まれ,西夏軍に襲われたのち漢人部隊に加わり,朱王礼や尉遅光らとともに敦煌侵攻の渦中に身を置く.朱は歴戦の武将,尉遅は没落王朝の末裔で母系は敦煌名家.三者の対比により,意志力・信念・出自の差異が物語に陰影を与えている.抑制の効いた筆致で,作為を廃し淡々と描く文体により,敦煌の滅亡と人間の無力を際立たせる.物語終盤,城塞都市と化した敦煌は西夏軍によって焼かれる.
趙は,千仏洞に経典や文書を隠すという行為を通じて,後世の史実――すなわち王道士による「発見」――へ接続する.この発想は,11世紀の災禍と20世紀の学術的「再発見」を一本の時間軸で結び,人類が歴史を保存しうるのは偶然と人の意志の交錯による,という普遍的テーマを浮かび上がらせた.西夏侵攻によって実際に莫大な文化財が失われた一方,隠され生き延びた文書群は,現代において世界文化遺産「莫高窟」の核心的価値を成す.敦煌研究院による修復保存事業は今も続き,失われたものと残されたもの,それらを託された時代の偶然が,歴史と文学を架橋している.
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原題: 敦煌
著者: 井上靖
ISBN: 9784101063041
© 1965 新潮社
