▼『人魚の嘆き・魔術師』谷崎潤一郎

人魚の嘆き・魔術師 (中公文庫 た 30-61)

 むかしむかし,まだ愛新覚羅氏の王朝が,六月の牡丹のように栄え輝いていた時分……南京の貴公子の美しき人魚への賛歌.また魔術師に魅せられて半羊神と化す妖しい世界――.

 常の煩瑣を忘れさせ,読む者を束の間,異界の美に誘う魅力を湛える幻想譚.三島由紀夫が「大谷崎」と呼んで敬意を表したごとく,谷崎潤一郎も自らの芸術を「甘美にして芳烈なる芸術」と形容した.この二篇には,妖艶な美意識が凝縮されている.巨万の富を相続し,あらゆる贅を尽くして倦み果てた南京の貴公子のもとに,異人が美しい人魚を伴って現れる.人魚を買い取った貴公子は,やがて人魚族の神通力を見ることを渇望する(「人魚の嘆き」).

 とある国の公園で「私」と恋人が出会う,男か女かも判然とせぬアンドロギュノス的な魔術師が登場する.町人たちが「其の魔術師の姿と顔とは,餘に眩く美しくて,戀人を持つ身には,近寄らぬ方が安全だ」と噂するその姿は,退廃的でありながら抗いがたい魅力を放つ(「魔術師」).性や人種の境界を曖昧にし,読者に幻想的な不安と魅惑を植え付ける二篇において支配的であるのは,思想や功利を排した純然たる美への耽溺である.

 いずれの物語も,あらゆる倫理や実利を超え,"美"を至上とする世界を描き出す.水島爾保布が筆を執った挿絵本は大正8年(1919年)8月,春陽堂から刊行された.水島はオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)の繊細な曲線美に傾倒しており,その影響は線のしなやかさや装飾的意匠に顕著である.ビアズリー風のエロティシズムは,谷崎の高雅な美文調と絶妙に融け合い,紙面に凛凛たる妖しさを醸す.大正期のモダニズムと耽美趣味の交錯点に位置する魔的美意識の極致である.

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原題: 人魚の嘆き・魔術師

著者: 谷崎潤一郎

ISBN: 412207259X

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