| 独房404号に収監された古参党員ルバショフ.三度の審問を通じて明らかになる過去と現在,壁を叩く獄中の暗号通信.No.1とは誰か?自白はなぜ行われたか?スターリン時代のモスクワ裁判と大粛清を暴いたベストセラー,戦慄の心理小説――. |
スターリン体制下における恐怖政治と粛清の本質を暴く政治的寓話である.背景にあるのは,1937年に始まった大粛清,もっとも衝撃的な事例は,共産党理論家ニコライ・ブハーリン(Николай Иванович Бухарин)の裁判であろう.ブハーリンは,ファシストの手先として断罪され,銃殺刑に処せられた.この裁判の特徴は,被告が自ら無実の罪を認め,自己批判を口にして死に臨んだ点である.主人公ルバショフは,ブハーリンをモデルにしており,革命の理念に一生を捧げた男が,最後には自己否定に追い込まれていく過程が描かれる.
アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)は本書を執筆する以前,ドイツ共産党員として活動し,スペイン内戦ではニュース・クロニクル紙の特派員として共和国軍に従軍した.内戦のさなかフランコ派に捕らえられ,死刑判決を受けるが銃殺直前,イギリス政府の介入で奇跡的に釈放された.ケストラーはかつて熱心なシオニストであり,パレスチナ移住を志した過去を持つ人物でもある.革命家,シオニスト,記者,亡命作家という多重の経歴は,思想を反共の立場に還元できない複雑さを与えている.本書は1940年に英語で刊行されたが,ドイツ語で執筆を開始していた.しかし,亡命先で原稿が失われ,ロンドンで英語で書き直すことを余儀なくされたという.
言語的な制約を負いながらも,この作品は後にジョージ・オーウェル(George Orwell)に強く影響を与えた.『一九八四年』が発表されるのは本書から8年後であるが,オーウェルは本書を読んで「これほど全体主義の心理を描き切った作品はない」と評した.作品の核心にあるのは「目的は手段を正当化する」という革命的ドグマの自己破壊的な論理である.革命は倫理をブルジョワの贅沢として否定し,純粋理性という羅針盤だけを頼りに航行するが,その果てに訪れるのは暴力の無限連鎖である.ケストラーは,このイデオロギーの宿命的な盲点を,ルバショフの心理劇として描き出した.
ルバショフが最後まで信じ続けるのは,個人の幸福ではなく,党の歴史的必然である.理性を最後の拠り所とするが,その理性は既に党の言語体系に絡め取られており,彼の自己批判は実質的に自己消滅の儀式となる.この物語は,理想主義が自己破壊へと転落する構造を暴き出した戦慄を容赦なく描く.スターリン体制は,国家が掲げる高尚な理念を正義の仮面として利用し,個を犠牲にすることでその純粋性を維持しようとした.その矛盾を告発することで,ケストラーは20世紀思想史における鋭利な批判者の一人となったのである.
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Title: DARKNESS AT NOON
Author: Arthur Koestler
ISBN: 9784003720219
© 2009 岩波書店
